“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第491回
野外料理が旨い理由

現在、新書の3冊目を執筆中だ。
これまでは、「蕎麦屋酒」「世界一旨い日本酒」
狭い分野の新書を出版したが、今回は「食」全般について。
このコラムで連載してきた話の一部も、
形を変えて加わることになる。

その本のなかで骨幹となるのが、
美味しさの本質とは何かということ。
人間は本来、生きるために、
味覚・嗅覚の感覚を使っていたことは、
このコラムの連載の最初の頃に紹介した。
危険なものを避け、不足した栄養素を得るということが、
美味しさの原点になっている。

このことをさらに、
日本人の食文化ということに拡大して考えると、
日本、あるいは東洋の自然観と西洋の自然観の違いに行き当る。
西洋では人間は自然を科学技術によって征服できる
という考え方が強い。
これは、ギリシャの論理思想とキリスト教が融合して
形成されてきた。
キリスト教では、神が天地創造を行い、
自分のコピーとして人間を創り、
人間に食べられるもの、あるいは、奉仕するものとして
動物を創ったことになっている。
つまり、神は絶対的な存在であり、
人間は自然の頂点に立つという考え方だ。

一方、仏教の影響が強い東洋の思想では、神は絶対ではなく、
人間が修行をして悟りを啓いて仏になるという考え方で、
人間は自然の一部にとらえられている。

この西洋と東洋の自然に対する思想は、
幾何学模様で形成された西洋庭園と、
自然の趣を活かした日本庭園の違いに顕著に顕れている。
このような東洋思想を受けて、
日本では自然の食の連鎖のなかで、
人間がそれを断ち切らないような配慮をしてきた。
自然のなかに農村を作り、
魚の種が絶えないように漁業を行ってきた。
それが、黒船に驚き、
明治維新以降の西洋文明を取り入れてきた過程で、
自然を大切にする文化がおかしくなってきた。

野外で自然に接しながら食べる料理が何故美味しいか
という問いに対する答えがなんとなくわかった気がした。
自分が自然の食の連鎖のなかにおかれていることを、
本能的に感じるて、
日本人の食文化の心が目覚めるからではないか。


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2006年7月17日(月)

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