死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




第10回
筆一本で暮らす不安定

昭和六十一年の暮れから六十二年の正月にかけて、
私は女房と二人でボルネオ島に出かけて行った。
もしあの時、ボルネオに出かけていたら、
今頃、どうなっていただろうか、
と昔の夢の跡を見届けるためであった。

もとより想像の域を出ないことであるが、
もしあの時、思い切ってボルネオに渡っていたら、
もちろん、作家などという職業には就かなかっただろうし、
高瀬貝とりにも失敗して、
多分、コタキナバルかブルネイあたりで、
中華料理屋のオヤジくらいになっていたのではないか。

ちょうど私の知っている人が現地の華僑を代表して、
ブルネイに八百半と合弁で
スーパーの店をつくっているところへ行きあわせたが、
もし私がボルネオにいたら、
今頃は私が八百半の合弁の相手になっていたのではないか、
などと想像を運しくした。

「そうおっしゃるけど、
きっと八百半さんから相手にもされなかったでしょう」
と女房から横槍が入ったが、
あるいはそれが真相に近いかもしれない。
結局、私はパパイアの果実園もつくらず、ボルネオにも行かず、
東京へ舞い戻って筆1本で身を立てることになった。
直木賞をもらってどうやら文章書きとして独立できるようになり、
読者に愛想もつかされずに今日に及んでいるが、
他人からみたら安泰そのものの生活をしているようにみえても、
筆一本に頼って生きるのはそう容易なことではない。

まず小説家を志して香港から東京へ戻ってきた時、
収入のあてはまったくなかったので、
今まで住んでいた香港の家を人に貸して、
そこからあがる四万円の家賃で親子三人、
生計を立てるよりほかなかった。
それでも家賃収入があっただけいいじゃないか、
四万円しかないといっても、
当時のサラリーマン収入は平均一万円ていどだったのだから、
恵まれているほうだったじゃないか、といわれるかもしれない。

たしかに、貧乏文学青年に比べれば、
断トツに恵まれていたけれども、
文学賞をもらって認められるようになるまでは、
収入がゼロだったし、賞をもらってからでも思うように
仕事の舞台はあたえられなかった。

無名時代、檀一雄さんの世話で、
復刊する「改造」誌に原稿を書かせてもらえることになり、
一枚千円で三十枚だから、
三万円になるぞと喜び勇んで原稿を書いたら、
復刊がお流れになってぬか喜びに終わったこともあった。
また、芥川賞か直木賞をもらったら、
すぐにも雑誌社や新聞社から声がかかり、
一流新聞社は無理としても、
地方新聞の連載くらいはさせてもらえるのが常識であった。
ところが、私のところには何の誘いもなかった。

私は日本人名前でなかったし、
私の書く小説には日本人が一人も登場してこないものもあった。
日本人は究極において、日本人にしか興味がなく、
日本人の登場してこない小説は日本人に読まれないと、
編集者たちは堅く信じて疑わなかった。
そのために私は何年間も、
原稿が思うように売れない空白の歳月を送った。

私の原稿を売り込みに歩いてくれた檀一雄さんは
当時、すでに大流行作家になっていたが、
学校時代の友人たちの月給が五万円ていどの時に
三十万円くらいの収入があった。
しかし、檀さんはいつもロ癖のように、
「僕たちの三十万円は不安定なもので、
サラリーマンの五万円にも及ばないよ」といっていた。
連載を書いているといっても、
連載が終わってしまえば、翌月から収入は途絶える。
病気になっても、同じように収入は途絶える。
また人気がなくなってしまえば、原稿を頼む人もいなくなるから、
老後だってどうして暮らしてよいかわからない。
さらにまた、これは現実的な話題になって申し訳ないが、
かなり名前の売れている作家でも、
単行本になった時に売れないと、
年間収入が五、六百万円どまりになり、
中堅サラリーマンにも及ばないようなことが起こる。
けっして世間の人が考えるようなスマートな職業ではないのである。





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2014年12月12日(金)

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