死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




第96回
死に方も生き方同様に大切

昔から日本では男の辞め時と花の散り際には美学があると考えられている。
横綱の引け時とか、内閣総理大臣の辞めっぷりは、
万人環視の下で行われるから、
タイミングを失わないことが大切だが、
サラリーマンと違って自営業だったり、創業者だったりすれば、
途中で健康を害しない限り、
死ぬまで勤めるべきだというのがこの本の主旨である。
だから、辞め際でなくて、「死に際が大切」ということになる。

どうせいつかは必ず死ぬ時がくる。
どうせ死ぬなら、「生ける屍」となって醜い生き方をするより
死ぬ権利を運命の女神から奪回して自分で主導権を握ったほうがよい。
そう思ったので、「私は七十七歳で死にたい」と書いたが、
もちろん、きめた通りに死ねるとは限らない。
予定を切り上げてもっと早く旅立つこともあろうし、
意外に身体がもって旅立ちが遅れることも起こり得る。
どちらにしても死ぬ目安を立てておけば、覚悟ができるから、
その場に臨んで悪あがきをするようなことにはならないだろう。

しかし、何がきっかけでこの世におさらばを告げるかは、
人によって違う。
ガンで死ぬ人もあれば、心臓麻癖や脳卒中で死ぬ人もある。
また飛行機事故や自動車事故で死ぬ人もある。
それもーぺんで解決してしまえば、始末がよいが、
うっかり植物人間になって家族に面倒をかけたり、
さんざ苦しんで死ぬということになると、
功なり名遂げた人でも、最後のところで
折角の素敵な人生を帳消しにしてしまう。
生き方も大切だが、死に方もそれに負けないくらい大切なことがわかる。

自分がまだそういう立場におかれていないので、
いざという時にはたしていさぎよい選択ができるかどうか、
あまり自信はないが、苦しい死に方をするより、
人には「安楽死」とか「尊厳死」を選ぶ権利があってよいと思う。
本人が元気なうちに遺言を残した者に限り
「安楽死」「尊厳死」が許されるようにすれば、
あとに遺された人もどれだけ助かるかわからない。
たとえば、私の両親は私が政治亡命中に他界してしまったので、
親の面倒を見ることができなかったが、
家内の場合は、父親が半身不随になったまま何年も生き続けた。

看護婦をつけて身のまわりの世話をすることができたからまだよかったが、
途中で何回も危篤におちいった。
「このままにしておいたら、もうもたないと思います。
これこれしかじかの治療をすれば、
あとしばらくはもちなおすと思いますが、どうなさいますか」と医者にきかれて、
「じゃ、もうこれでおしまいにしておいて下さい」
といえる娘や息子なんているものではない。
おかげで、不必要に長く生きながらえ、
家族にもよけいな出費と面倒をかけた。
それで楽しい余生を送れたのなら家族としても面倒の見甲斐があるが、
美味しいものも食べられず、歩行もままならないとなると、
あとは生命力のなくなるのを待つだけということになってしまう。
親に対してまさかそうしろとはいえないが、
自分に限り「安楽死」「尊厳死」をさせてほしいと思う人は多いに違いない。





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2015年7月1日(水)

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