中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第四章 揺銭樹 - かねのなる木 -(2)

その1

夕陽が山の端に落ちて、香港の町に急に陰影が射した。
まだ夕陽の射している港の一角は
真赤に焼けて海に火がついたようだった。

もうこれで、
何時間ヴィクトリア公園のベンチに坐っていただろう。
春木はさっきから、
そろそろ腰を上げなければならないと思っていた。
しかし、なぜか、
まるでベンチが磁石仕掛けででもあるかのように、
立ち上がろうとするたびにまた腰が下りてしまうのである。

なにも考えたくなかった。
考えても仕方のないことだ。
他人の金をだます仲間に入って生きることが、
このニ年間の成長を意味するだろうか。
老李は血も涙もない男のように見えるが、
全然そうだともいいきれない。
他人を踏台にすることをすすめるかと思うと、
自分の苦境を助けてくれたりする。
なんのために自分を助けるのか、
自分にどんな利用価値があるのか、その理由もわからない。
とすると、老李は自分とはなにか桁違いにできた男だろうか。
これまで生きてきた環境の産物としての学識や良心を
自分はそのまま後生大事に温めているのだが、
老李はまるで違う世界に生きてきたのであろうか。
それとも人間はお互いに顔を合わせ、口をきき、笑ったり、
怒ったりするが、
本当は全然違う次元の世界に生きているのだろうか。
どれもこれも皆わからないことばかりだ。

しかし、いまの春木にとって唯ひとつさしせまった問題がある。
それはポケットの中に入っている
百ドルの金をどうやって使うかということだ。
さっきから気にかかっているのは、
人生の謎などよりも本当はこのことである。
時計も持っていないし、洋服も持っていない。
靴も買いたいし、シャッもボロボロだ。
しかし、そんなものを全部買うには、
百ドルはあまり少なすぎるし、
さしあたり必要な日常品を買うにはちょっと多すぎる。
なにしろ全然予期していなかった金だけに、
この悩みは想像以上深刻だ。
とうとう最後に、
「えいっ」という気持になった。
そうなると、彼はリリを思い出していた。
いや、いま思い出したのではない。
本当は百ドル握った瞬間から、
真先に頭にきたのはリリのことだったが、
少しばかり躊躇するほうが
良識ある人間として自分に申し訳が立つと思っていたのだ。

もうリリには、四ヶ月も会っていなかった。
もちろん、それは金のせいだった。
金がなくてもリリは会ってくれたかもしれない。
だが、そんなところに春木は妙に潔癖だった。
どうせ金で結ばれた縁だ。
金がなくなれば、リリだっていい顔はしないだろう。
そんな顔のリリを見るくらいなら、
鑚石山のバラックで天井の節穴でも眺めていたほうがいい。
つまり知らず知らずのうちに
彼はリリにある種のイメージを抱くようになっていたのである。

男の心の中は、たとえてみれば、
いくつもの部屋をもった大きな邸宅のようなものかもしれない。
いろんな人間がいろんな部屋に入って来て自分と接触する。
だが、どんな男だって、
他人に滅多に入ってもらいたくない部屋を一つはのこしてある。
春木のその秘密の部屋へ入って来ることのできる人があるとすれば、
それは、リリだ。

春木は電燈のちらほらするタウンへ下りて、
何カ月か前に行ったことのある
陸海空通という宿へ足を向けていた。
異動の激しい世界のことだから、
リリはおそらく同じ所にはいるまいと思って、
恐る恐る階段を上がった。
ボーイは変わっていたが、
リリという女を呼んでもらえるかと聞くと、
ちょっとお待ち下さいという。
ものの五分もすると、
リリが部屋の中へ入ってきた。
彼の顔を見ると彼女は感きわまったような声をあげた。

「まあ、しばらく」
「びっくりしたか」
「あんまりいらっしゃらないから、死んでしまったかと思ったわ。
いままでどうしていらっしゃったの?」
「いや、国へ帰っていたんだ。
商売の資金をつくりにね」
「そうなの。
で、お仕事のほうはうまくいってる?」
「まあね」
リリは以前と少しも変わっていなかった。

「君は?ずっと元気だった?」
「それがね、あれから病気して寝込んじゃったのよ。
あなたからあのお金を貰っていなかったら、
死んでしまったかもしれないわ。
私少し痩せたでしょう?」
「そうでもないよ」
「そう?それを聞いて安心したわ。
あなたのほうは国へ帰って楽しかったでしょう?
久しぶりに奥さんや子供さんにも会えて」
「君のことを思い出して困ったよ」
「お世辞が上手になったわね」
とは言ったものの、リリはさすがに嬉しそうだった。

「本当だよ。
お袋のお墓参りに行ったら、急に君のことを思い出してね。
やっぱり君のようにお母さんがいるのは、心配も多いだろうが、
心の支えにはなるよ。
そう思うと、急に会いたくなって、大急ぎでやって来た」
「あんなうまいこと言って、私そんな口車になんか乗らないわよ」

リリとお喋りをしていると、
春木はなんとなく落着きを取り戻してくるような気がする。

その夜、真夜中に目を覚ました春木は、
自分の腕の中で前後もなく寝入っている彼女をゆすぶり起こした。

「ね、リリ」
彼女はそっと眼をあけて、
そこに男のまなざしを見ると、静かに笑った。

「君、こんな生活をやめて僕と一緒に暮らさないか」
「どうして」
「もちろん、いますぐの話じゃないよ。
もっと先になって商売が少し軌道にのってから」
「どうしてまた急にそんな話をするの」
「それとも厭か」
「ううん、厭じゃないわ」彼女は首をふった。

「でもあなたのほうが飽きてしまわないかしら?」
「そんなことはないさ。
それよりも僕が貧乏で
たいしたことがしてあげられないのが心配だね」
「全然、お金がないのも困るけれど、
ふつうに食べていけたらいいわ」
「本当だね」
と念を押すと彼女はにっこり笑った。
その眼つきがいつか彼が留置所の中で想像したのと、
そっくりだった。
やっぱり彼女は生きているのだ。
その翌朝定刻の九時に事務所へ出ると、
一人の男が来て待っていた。
六千ドルの集金に来たのだということはきかないでもわかる。
男をそのまま待たせたが、
時計が十時をまわっても老李の姿は見えない。

「ずいぶん遅いですな。いつもこんなですか?」
「そうでもないんですが、
どこかへ回り道をしているのかもしれません。
お急ぎなら、午後にもう一度おいでになったらいかがです?」
「じゃ、そうしましょう。
もし李さんがお見えになりましたら、
ここの所へ電話をかけて下さい」





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2012年7月15日(日)

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