金銭読本 邱永漢

「人とお金」を批評する

第2
金と女 その1

金と女とーこう並べると何となくほほえましくなって来る。

二つながらに男の追求の対象であり、
二つながらになかなか掴まらず、
やっと掴まったと思った途端に興味の大半を失って、
なかなか男を満足させてくれない。

けれども中国の俗言に「女のために死に、金のために千里を走る」
とあるところを見ると、
男の生き甲斐の大部分はこの二つに集中されており、
それも主として追求過程に集中されているらしいのである。

女と金はまた次の点で似ている。

即ち最も必要な時に欠乏し、
もう沢山だと思う時
(は減多にないかもしれないが、少なくとも不自由しなくなった時)
にはかえってゾクゾクと集まってくる。

そして、その集まり方は、男前だとか、才能だとか、
まして人格や徳性とは関係なく、
もっぱら運によって左右される。

金運とか女運とかいって、
ツク時はやたらにツクが、
ツカない時はさっぱりである。

だから血眼になって追いかけたからとて
必ずしも金持や艶福家になるとは限らず、
反対にジッとしていたら金が転がり込むことや
押しかけ女房がないかというと、必ずしもそうではない。

そこで人間の欲望や努力と
足並みを揃えてくれない金のこうした性質を、
中国人は、金には四本の足があるという表現をし、
こちらが金を追っかけているようではとても駄目だが、
金の方でこちらを追いかけてくれるようになれば、
とそればかりを願っている。

もっとも、女もそうであるかどうかについては、
目下研究中で、
まだまだ結論を出す時期には到達していない。

しかし、金のために身を減ぼす男があるように、
女のために身を減ぼす男がいる点ははっきりしている。

あらゆる犯罪の動機が金または女、
あるいはその双方と何らかの意味で関係がある。

これは金と女がいかに男によって重視されているか、
その一顰一笑によって男たちがいかによろめくか、
という証拠であって、
金にとっても女にとっても決して不名誉な現象ではない。

私はもっぱら男の立場から金を論じてきたが、
これは偶然私が男に生れたからであって、
もちろん、女の立場から男と金の関係を論ずることも可能である。

ただその場合、男と金の類似性よりも、
その対照性が気にかかるのは、
やはり私が女性の眼をもって男性を見ていないからであろうか。

なるほど金も男も、女の懐中をホテルと心得て、
入って来たかと思ったら、
またすぐ出て行ってしまう点では似ているが、
金と男は一緒に身につかず、
貧乏な間は温順しく帰って来る男も
金が出来ると次第に遠ざかり、
金と男はどちらか一方しか女と縁がない。





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2012年7月24日(火)

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