金銭読本 邱永漢

「人とお金」を批評する

第10回
誰がために金はある その2

金が偏在すること自体は、リンゴが熟すると
地上におちるのと同じぐらい必然的な現象であるが、
ただ社会全体から見ると、二つの罪悪を犯していることになる。
一つは、本来使われなければならないものを
使わないで貯蓄する結果、
一方に使いたくても使えないものが存在しているのに、
もう一方には使う手段を持っているのに使わないものが存在し、
そのために経済の発展が阻害されることである。

もう一つは、人間は本来、均等なる機会を与えらるべきなのに、
金持の子弟はスタートから有利な条件を与えられ、
貧乏人の子弟は不利な環境を
克服していかなければならないことである。

この二つの罪悪の故に、
人間の営利行為そのものまで
否定する考え方が出てくるが、
しかし、それは角を矯めて牛を殺す結果になりかねない。
今日の社会政策は医者が患者の治療をする時に
心臓に疾患があれば心臓の疾患をなおそうと努めるように、
だいたい、この矛盾をいかに除去するか
という方向に向けられている。
累進課税や義務教育制度や育英制度などは、
いずれもこの線の上に沿った政策ということができよう。

けれども金そのものの存在を許している限り、
社会制度がいかように変革されようとも、
金は金の法則に従って動く。
はじめは「民衆のため」という純粋な動機から出発しても、
権力のあるところへ金は集中していく。
金は人間を堕落させる威力を持っているから、
よほど立派な人格を持った人でない限り、
一度、自家用車に乗り、議事堂の赤い絨毯ふめば、
二度とそこからすべりおちまいとしてもがく。
従って社会制度は当然そうした人間の弱点を
勘定に入れて作られるべきであって、
高潔な人格に期待しては危い。
しかし、仮にそうした社会制度を作っても、
人間は悪知恵をしぼって
自ら作った網をくぐりぬけようとするから、
どんなにいい制度を作っても完壁を期することはできない。

かくて金はまたいつの間にか少数者の手に握られるようになる。
が、ただ一つ、いかなる権力者でもまたいかなる大富豪でも、
永遠に金を握っていることはできない。
何故ならば、人間は必ず死ぬものであり、
しかも金を持ってあの世に行くことはできないからである。

かつて人間は自らの手(?)で神をつくった。
そして、自らつくった神に自らを
しばりつけることによって生きてきた。
今日では神を信ずる者は次第に少なくなり、
人々はその代りに金を信じている。
金もまた人間が自らの手でつくったものであるが、
その金に文字通り金しばりにされて生きている。
もし死というものがなくて、
金で人間の生命がひきのばされるものなら、
人間の世の中ぐらい不合理なものはないだろう。
が、幸いにして、金持も貧乏人も
(たとえ神の前では平等ではないとしても)
死の前では平等なのである。

そこで死に直前すれば、
人は何か考えるところがあるに違いない。
それが直ちに人生観の変化という
大げさな現われ方をしないとしても、
金銭に対する見方が、
とかく見失われがちなものから
本来のものへと戻って行くのではあるまいか。

人間は自分の計算によって行動する。
けれどもどんなに巧みな討算でも、
天の計算には及ばない。
中国の俗言にこういうのがある。
「リコウな者はバカを食う。バカは天を食う」と。
金がいくら猛威をふるっても、
天は人の生きる道を塞ぐものではないと私は思っている。

 

金銭読本 完結





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2012年8月1日(水)

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