『失敗の中にノウハウあり』が誕生するまで
まえがきにかえて


自分の書いた文芸作品の批評を読んで感心したことはあまりない。文芸評論家は、自分で小説を書いたことがなく、小説を書く動機や発想のヒミツに立ち入ることができないからであろう。
その点、小説家の読後感にはなるほどと感心させられることがある。たとえば、丸谷才一さんが私の食べ物随筆『食は広州に在り」(中公文庫)の解説を書いてくれたときは、できあがってきた本を見て、私のほうがあッと驚いた。丸谷さんは私の身体の中に流れている中国人の血を指摘し、私の本を「国が亡んだとて、そんなことくらい何でもないではないか。大事なのは個人がこの一回限りの生を楽しむことで、それにくらべれば、植民地がなくなろうと、国土が占領されようと、財閥が解体されようと、どうでもいい話ではないか。彼はそういう趣旨の手紙を、亡国の民の先輩として、われわれ後輩に書きつづけたのである」と書いてあったのである。私にそういう姿勢がなかったかというと、もちろん、表立ってそんな教訓めいた話をする立場にはいないが、全く身に覚えのないことではなかったから、ギクリとした。小説家はさすが人間観察業だけあっで、よく物を見ているものだなあ、とあらためて感心をしたものである。
私の書いた金銭物、経済物については、滅多に批評に出くわさない。どうしてかというと、ジャーナリズムは、少なくとも現在までのところは、お金や金儲けについて書いた物を、芸術作品とは認めていないし、かといって学術書とも思っていないからである。しかし、たまに書かれた批評を見て、なるほどと感心したことが少なくとも二回はある。
一回は私の『香港の挑戦』(中央公論社刊)という本に対する批評である。その中で私のことを金銭学というジャンルを開拓した人だと指摘し、そういう分野の集大成をやればよいと書いてあった。そのことが頭にひっかかったので、次に連載を頼まれたとき、私は『Will』誌に「金銭処世学」(これも中央公論社刊)を書いた。もし私が息子のために金銭面でどう世間と対処したらよいかきかれたら、「この本を読みなさい」と黙って渡せばよい、とそう思いながら書いたのである。
あと一回が昨昭和六十年四月『週刊東洋経済』誌に載った「邱永漢ブーム」についての匿名座談会である。三人の経済評論家がわざわざ匿名にして喋ったのは、もちろん、私への遠慮があっては面白くないという編集者の狙いがあってのことであろうが、その中の一人が、「もし邱さんが"私の失敗談"を書いたら大ベストセラーズになるでしょう。でも、まあ、ご本人は多分、書かないでしょうな、その中にノウハウがあるんだから」と述べてあった件である。私はその座談会がひらかれたことは知っていたが、席上で何が語られ、それがいつ誌上に出るのかも知らなかった。ところが、台湾から帰ってくると、家にある私の机の上に「ワタシノシッパイダンヨヤクイタシマス グラフシヤ ナカオコレマサ」という文面の電報がおいてあった。何のことだかさっぱりわからないままに中尾さんに電話をしたら、『週刊東洋経済』誌に掲載された匿名座談会の内容を説明され、それでやっと事情が少しわかりかけてきた。
しかし、まだあまりピンとは来なかった。失敗した話なら材料にはこと欠かないほど経験をたくさん積んでいる。講演のときも、時々、そういう話をしている。私は失敗したことをさほど恥ずかしいとは思っていないし、それを喋れば聞いている人も喜ぶし、自分のストレス解消にもなるから、いいじゃないか、くらいにしか考えていなかった。ただそういう指摘をされて、自分でも人々の反応に気をつけていると、私の失敗話に関心を持つ人は意外に多いのである。もともと小説家は、佐藤春夫先生の詩の文句じゃないが、「恥多き物語書きて得たる金いくら」といった風情があるから、それなら洗いざらいぶちまけることにしようじゃないかという気になってきた。あまりにも多忙をきわめていて、とても書きおろしはできないし、どうしたものかとためらっていたら、『週刊朝日』誌がスペースを提供してくれると言う。
そういうわけで、昭和六十年八月から六十一年三月まで『週刊朝日』誌に三十回にわたって、「金儲けの神様が儲けそこなった話」と題して連載させていただいた。連載中、講演に行くたびに多くの聴衆から「あれ、面白く読んでいますよ」と挨拶されたから、やっぱり多くの人々の関心事と大きな接点を持っているのだなあと教えられた。ただ単行本にするにあたって、やはりこの作品の狙いは、失敗の中から成功のヒントをさぐり出すことであるから、「失敗の中にノウハウあり」という題にした。
この本が生まれたのは、匿名座談会の匿名氏たちのおかげであるから、まず三名の匿名氏に感謝の意を表したい。また『週刊東洋経済』誌の企画編集者にお礼を述べたい。最後になってしまったが、連載中お世話になった『週刊朝日」誌の山下勝利さんと、出版を企画してくれたグラフ社社長の中尾是正さんに深謝致します。

昭和六十一年三月吉日
邱永漢

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