元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第1697回
安岡章太郎先生の「ぼんやりした不安」

いま人生を襲う「不安と不信」とは、より複雑に
個人個人の心の襞に食い込んで、日々の生活ばかりか、
「生存」いや「いのち」そのものに、
「ぼんやりした不安」を感じさせるにいたっているのではないか?
ガンだけない。近代西洋医学では手に負えない、
いや、政治や行政などではどうすることも出来ない、
心身を蝕む「不安難病」が蔓延しているではないか?

前回、日常に折り重なる得体の知れぬ「人生の不安」、
「ぼんやりした不安」について書いてきましたが、
いま発売中の「いのちの手帖」第3号では、
ずばり、「ぼんやりした不安」
と題する6ページに渡るエッセイを、
文壇の重鎮である安岡章太郎先生から頂いております。

これは安岡さんの名作小品集の中から、
ぜひにと、お願いして、小誌に転載させていただいたものですが、
自らの持病であるメニュエル氏病の難病不安から説き起こして、
自殺した芥川龍之介の「ぼんやりした不安」から、
フランスの実存主義の哲学者であり
作家であるサルトルの名作「嘔吐」まで、
縦横に筆を走らせ、まさに、
誰しもの心のうちに錯綜する
「人生の不安」の正体を浮き彫りにしようと試みた
珠玉のエッセイです。
安岡さんならではの軽妙な筆致を愉しみつつ、
ぜひ、みなさんにも
じっくりと読んでいただきたいと思って
掲載させていただいたわけです。

        *

  ぼんやりした不安        安岡章太郎
「ぼんやりした不安」といふのは、芥川龍之介が
『或旧友に送る手記』のなかに述べた言葉としてよく知られてゐる。
  誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。(略)
  君は新聞の三面記事などに生活難とか、
  病苦とか、或は又精神的苦痛とか、
  いろいろの自殺の動機を発見するであらう。
  しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。
  のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。
  自殺者は大抵レニエの描いたやうに
  何の為に自殺するかを知らないであらう。
  それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。
  が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
  何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。
 勿論さういはれても、傍にゐる人間としては、
ただ《ぼんやりした不安》だけけで死なれてはたまらないので、
不安の理由をいろいろと詮索する。
芥川氏の場合は、亡つたのが昭和二年、
大恐慌の勃発する直前であり、社会変動やら、
言論思想の弾圧やら、戦争やらが相次いで、
昭和の動乱期に入るわけで、そんなことを漠然と予知したものが
「ぼんやりとした不安」になったといふ解釈も、
容易に成り立つわけだらう。
それは、たしかに『或旧友に送る手記』にも、
プチ・ブルジョワとして生きることの苦しさだとか、
売笑婦と一緒に彼女の《賃金(!》の話をして
「我々の人間の哀れさを感じた」ことだとか、
右の解釈を肯定するやうなことが書かれてもゐる。 
 
しかし不安といふのは元来ぼんやりしたもので、
はつきりとした理由があれば、
それはもう不安とは呼べないやうなものではないか。
勿論、理由がわかってゐても、
それだけでは解釈のつけやうがないことも多いだらう。
しかし、その場合でも解決のつかないことが不安の理由ではなく、
不安は不安として在るわけだろう。(以下略)

          *

70年前の芥川の自殺、その遺書に書かれた
「ぼんやりした不安」については、、
時代不安を感知したといった高尚なものではないとして、
作家・松本清張が「昭和史発掘」の中で、
女性問題説を興味深くとりあげていますが、
安岡さんのエッセイでは「人生の不安」とは
日常の不安が折り重なった、ただの「生存の不安」ではなく、
まさに死と隣り合わせにある、とらえどころのない
「生命の不安」の正体を複層的に描いている――、
ここが読書のポイントです。
すでに、安岡さんのエッセイを読んだ人も、
いま一度、精読してみてください。
逃れられないと思われる不安すら愉しむ、
そこから安穏の光明も見えてくる・・・
こうした人間という生命体の逞しさを
このエッセイから垣間見ることが出来るでしょう。


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2007年4月20日(金)

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