元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第2006回
「自らのいのちとは創作芸術である」(1)

紀州新宮の短歌ネットワークを通じて、
明治の末期、僕の祖父・沖野岩三郎と
正食・マクロビオティックの始祖・桜沢如一の青春期は
知り合いだったかも知れない――、という話の続きです

桜沢如一自身、著書「わが遺書」の、
「砂丘」という雑誌を創刊したとあるではないですか?
沖野岩三郎の名前は出てきませんでしたが、
沖野が親しくしていた地元の歌人和貝夕潮や下村悦夫、
そして「明星」や「スバル」という雑誌の主宰者、
与謝野寛・晶子夫妻との関係も書かれていたわけです。

「若い頃――17才の頃から私は詩歌の世界に入った。
18、9才の頃から京都で詩歌の雑誌『砂丘』を作って出した。
亡き母の故郷紀伊新宮の二人の友人
中野緑葉、下村悦夫が協力者であった。(略)
その関係から与謝野晶子さんの雑誌『スバル』に歌を出し、
間接に晶子さんに歌を見て貰った晶子さんは私の歌を見て、
『この人は女でせう』と云はれたと云ふ。
私はそれ位気の弱い、涙もろい女性的な少年であった(略)」

ところで、近刊予定の拙著
「大逆事件異聞=大正霊戦記=沖野岩三郎伝」の原稿には、
二人がなんらかの関係あったということは数行書きましたが、
いまも、桜沢さんと
祖父たちとの接点について探索しておりますので、
もし、和歌山郷土の研究者や近代短歌史研究家、
また桜澤如一研究家の方々で、
なにか、桜沢さんの青春期について、
知っておられる人がいたら、
ぜひ情報や資料を教えていただければ幸いと思っています。

それはさておき、桜沢如一さんの著書「わが遺書」には、
短歌や詩がたくさん掲載されていますが、
食哲学の普及の情熱と、歌人としての情感エネルギーが
いかに交錯していったか・・・という興味深いことについても
桜沢さん自身が、序文に語っておられるので、
その部分を抜粋紹介しておきましょう。
これは昭和13年、桜沢が46歳に集大成したものです。

「今度『わが遺書』を出版する。
それは世に問ふ自信のないものである。
然し、一生に一冊よい詩歌集だけは残して死にたい、
と云ふ願ひを捨てた訳ではない。否、是非残して死にたい。(略)
詩歌は生命そのものである。
芸術は長く人生は短し!
楽しい詩歌の世界の人となり切る事が出来なかったら、
ほんとうに生きた甲斐がないと私は思ってゐる。(略)

私は少年時代に創作家を志望した。
それは夢だった。
青年時代に翻訳家を志望した。
それは自ら捨てた。
そして食養研究に没頭した。
そしていつの間にか人様に食養を説く様な事になって了った。
真実の研究と云ふ事が
生きると云ふ事でなくてはならないからには
是非もないことである。
食養を始めてからもう二十余年になる。
それは私にとって芸術であった。
独学独習、自分の生命の創作であった」

どうでしょうか?
いま、ダイエット食事法として、
日本の若い女性に普及したマクロビオティックですが、
その根底には、詩歌集「わが遺書」に語っているように、
始祖・桜沢如一の「自らのいのちとは創作芸術である」とする、
切なる思想があったことが分かると思います。
僕も、思わぬ機縁で、桜沢さんの詩歌集を読んだわけですが、
ぜひ、この食不安、生命不安の時代を乗り切るべく、
「偽食」から「正食」へ! を志す人は、
ぜひ、この桜沢さんの「遺言」=
「自らのいのちとは創作芸術である」をかみ締めて、
いのちを大事にしていただきたいと思っています。


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2008年2月23日(土)

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