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11. あらたな苦しみのはじまり・・・の予感

先生に焼肉店開業の話をいただいた後、
私は少なからず楽天的な心持ちでした。
なぜなら、私はもともと焼肉屋の店長だったからです。

私の実家は愛知県岡崎市という、
唯一、徳川家康が生まれたことぐらいが自慢の小さな町です。
1998年、私は中国での留学を終え岡崎に戻り、
次に何をすべきかについて考えていました。
いわゆるフリーターというか、仕事もしていませんでしたので、
完全なプーターローでありました。
実をいうと、当時私は相当打ちひしがれていました。
なぜなら、自分では
「海外の大学院も出て5つも言語が話せたら、
日本に戻ったらきっと企業からひっぱりだこ間違いなしだ。」
と確信していたものの、実際に日本に帰ってみると
「いやー、金さんもう26歳でしょ。えっ、社会経験ないの?
いやー、経歴はすばらしいけど、うちじゃあ難しいね〜。」
となんとも悲しくなるような対応をされ、先が見えない状況だったからです。

そこにうちの両親から、
「伸行、焼肉屋やるから手伝えや。」という指令が入り、
表面上では「仕方ないからいっちょう親孝行でもするか。」
と生意気なこと言いながら心の中では
「助かった。とりあえずやることができた。」という気持ちで焼肉屋店長を始めたのです。

さて、ふたを開けてみるとこの店は連日行列のできる店となりました。
オープン直後は、平日の平均待ち時間が1時間、
週末は1〜2時間という超繁盛振りでした。
当時、一家総出でスタートした商売はあまりにも順調にすべりだしたのでした。
この焼肉屋の成功体験から私は
「中国のようにうまい焼肉屋がない市場だったら楽勝もいいところだな。」
と、高をくくっていたのでした。

成都に話を戻すと、邱先生に焼肉店開業の指令を受けた次の日の夜、
成都で比較的はやっているといわれる焼肉店で食事がしたい
という邱先生のリクエストに答えて、とある韓国焼肉店に行きました。
先生は肉を一口食べるたびなり「まずい!」と。
もう一口食べては「まずい。」「・・・。」を連発されました。

別に私が悪いわけではないのですが、
さすがにマズイを5連発もされると何やら、
オーダーをした私が悪いような感覚におちいってくるのでした。
その後、「キム君、韓国の焼肉はまずいから韓国式はだめだよ。」
とおっしゃる先生の言葉に少しめまいを感じていました。
なぜなら、「実家の韓国式焼肉をこちらにそっくりそのまま持ってくる。」
ことを考えていたからです。
それだけでなく、当時2005年の春といえば、中国で大規模な反日デモがおき、
その起点が成都だっただけに、とくに"日本"という二文字を使いたくなかったのでした。
たとえ中身が日式でも韓国焼肉と名うつべきところに、
先生の「韓国焼肉はだめだよ。」の一言。
新たな苦労の予感を感じずにいられなかったのでした。

まあ、予感で終わるわけはないんですが…。


2007年6月4日(月) <<前へ  次へ>>