では、どうして孔子は失敗者だったのであろうか。一言でいえば、孔子は自ら実際家として行動したが、彼以上に実際家であった人々から見れば、かなり屁理屈屋だったからであろう。
衛の霊公は仕官に来た孔子をつかまえて、用兵の術を聞いた。
「祖先を祭る術なら知っておりますが、軍隊のことは存じておりません」
と孔子は答え、その翌日、早速、衛にさよならをした。その足で陳に行ったが、貧乏してついにその日の暮らしにも困ってしまった。いっしょについてきた弟子どもは栄養失調で病気になり、いっこう威勢があがらない。子路は孔子がなんらなす術もないでいるのを見ると、腹をたてて、
「君子でも貧乏するものとみえますね」
といやみを言った。
「もちろん、貧乏はするさ。くだらない人間がこんなめにあったら、とり乱してしまうだろう」
と孔子は平然として答えた。
孔子は自分を雇ってくれなかった霊公を相当恨み、霊公が南子のような素行の悪い女にうつつをぬかして家庭争議を起こすのを痛烈に非難して「無道者」と呼んだ。霊公は南子の思いのままになって、他を顧みなかったので、実の息子蒯聵(かいかい)からさえバカにされている。
それでいて滅びなかったのは、仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ)というりっぱな外交家がおり、祝蛇という文部大臣がおり、王孫賈という名将をかかえていたからである。孔子自身それを認めていたくらいであるから、霊公は全然人を見る目がなかったわけではない。
しかし、南子が情夫とよろしくやることには見て見ぬふりをしていたので、世間の評判が悪くなり、遂に蒯聵が我慢しきれなくなって、母親の暗殺を計画し、それが失敗して亡命するという事件が起こった。霊公はあきらめて、蒯聵が残していった孫の輙(後の出公)を後継者にきめた。霊公の死後、蒯聵は王位継承権を主張し、隣国晉をバックとして、自分の息子と骨肉相削る悲劇を演じた。
このとき、子路はすでに衛に仕官していたが、師匠の就職をひそかに運動していたのであろう。もし出公が孔子を迎えることになったら、どんな腹案がありますか、と孔子に聞いた。
「まず大義名分を明らかにすることだな」
孔子の言う意味は、おやじと息子を仲直りさせる具体的対策ではなくて、おやじをおやじと認めない出公におやじはおやじと呼び、現に父親の廟と呼んでいる祖父の廟を祖父の廟と呼ばせることから始めようというのである。具体案を師匠に期待していた子路はすっかり失望して、
「みんなが師匠は迂遠な人だと言っていますが、なるほど世評に偽りはねえや」
「なにを言うか。だからおまえはバカなんだ」
と孔子は頭から怒鳴りつけた。
「賢い人間なら自分の知らないことには口出しをしないものだ。わしの考えでは、もし雀を烏と言いはればうそになる。うそやごまかしでは政治がうまくいくはずがない。政治がうまくいかなければ、文化は興らない。文化国家にならなければ、刑罰は不公平になる。
刑罰が不公平になれば人民は安心して生活ができない。だから少し考えのある人間なら、ほんとうのことをはっきりと言う。その代わり言った以上は実行する。名前のほうが実行よりさきだ」
おそらく子路さえも、この屁理屈を「風が吹けば桶屋が繁盛する」式の話として聞き流し、師匠を迎えることはあきらめたにちがいないのである。
長い不遇な流浪を続けているうちに孔子は動のなかに静を、有限のなかに無限を、現実のなかに理想を築き上げようと考えるようになったのであろう。年とともにこの傾向はますます強くなり、ますますガンコな爺さんになっていったと考えられる。これは思想家としての孔子の成長であったかもしれないが、同時に実際家としての孔子の敗北であったと私は見ている。
そうした過程をたどる人間に残された唯一の道は後進を教育することであった。孔子はさきにも述べたように、実際家として自分の才能をあきらめきれなかったので、就職運動を続けながら、後進の教育を始めた。彼が諸国を流浪するときは、いつも何人かの弟子がついてまわった。学問の押し売りをして歩く彼とその弟子たちの風変わりな格好が、当時の人々の目に異様なものとして映ったとしても、少しも不思議ではない。
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