利益社会観

「楚の国に直躬(ちょくきゅう)というものがいた。その父が羊を盗んだのを知って役人に密告した。令尹(れいいん)は君に直なるものは父に曲なるものとして、これを殺すよう命じた。これを見てもわかるように、君の直臣は父の暴子である。また魯の人が国王に従って戦争に行き、三度戦って三度とも敗北した。孔子がそのわけを尋ねると、私には年とった父親がおります。もし私が死んだら養う者がありませんと答えた。孔子は親孝行者として、これを表彰した。これを見れば、父の孝子は君の背臣であることがわかるであろう。そして、結果として、楚では人の悪事を密告する者がなくなり、魯では敵に降ることをなんとも思わない者が多くなった」(五蠧)
かくのごとく君臣上下の利害はもともと相反するものである。むかし、蒼頡(そうけつ)という人が鳥の足跡を見て、それからヒントを得て、字を発明したといわれているが、そのとき、自分の利益のために働くことをム(わたし)と作った。これがのちに私となったのである。公という字の八は背くという意味で、これをもってしても、公私相背くものであることがわかるであろう。
「はじめて字が作られた大むかしでさえ、蒼頡は公私の利害が一致しないことを知っていた。しかるにいまもって、公私同利と考えるものは、実にものの道理を知らない者というべきであろう」(五蠧)
人間がいかに利害関係のために動くかという事実は枚挙にいとまがないが、最も利害打算の少なかるべき肉親のあいだにおいてさえ、
「男の子を生めば、添丁と称して大いに喜び合うか、女の子を生めば、間引いてしまったりする。男の子も女の子も、もとを正せば、同じ父母の懐から出てくるのに、片一方がおめでとうと言われ、片一方が殺されてしまうのは、将来に対する考慮からである。父母と子のあいだにおいてさえ、このとおりであるから、赤の他人の場合は言わずもかなであろう」(六反)
ところが、今日の学者が君主に勧めるのをみると、いずれも利益を追求することをやめて、民を愛せよ、と説いている。これは肉親に非ざるものに、父母以上のことを求めるようなものであって、不当な要求というよりほかない。のみならず彼らの説くところの愛がいかに無力なものであるかは、父母と愛児の関係を見ればよくわかることである。
「母性愛というものはおそらく父性愛の倍も強いであろう。ところが、父親の命令は母親の十倍も威力がある。警察に至っては愛のかけらだにないのに、その命令の効果たるや、優に父母の一万倍にも相当する。父母は溺愛しても命令は行なわれず、警察はおどかすだけで人民がそのとおり動く。厳と愛の別はこれをもってしてもわかるであろう。元来、父母が子に求めるものは、安全有利な生き方であり、法にふれないようにと願うだけである。
ところが、君主は国難あれば人民を死におもむかせ、平和なときでも力を尽くさせようとする。愛をもって安利を勧めてもきかない者がどうして愛利のない者の命令をきくのであろうか。名君はこの関係をよく知っているがゆえに、恩愛の心を養わないで、威勢を増すことを考える。慈母のもとに蕩児が多いのは愛に頼りすぎるからであり、たいして子供をかわいがらない父親のもとに、案外善良な息子が生まれるのは、父親が鞭を持っているからである」(六反)

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