法のコンパス

マキァヴェリーに次のような文章がある。
「人の行為は、ことに君主の行為は、誰でもじゅうぶんに判定はできないのであるから、その結果から判断される。されば君主たる者はよろしく国を制定統治していくことを念とすべし、かくて彼の手段はつねに是とせられ、彼は万人に賞賛されよう。これ一般の大衆は表面的のことと結果とによって判断するからである。しかも世間にはただこの俗物が存在するばかりで、少数の識者が場所を獲るのは大多数の者が根拠の地を失ったときにかぎる。現今のある君主は、その名前をあげるのはよくないが、彼が一度口を開けば平和と敬神とを説くのであるが、しかもこの二つのものほど彼と敵同士のものはないので、彼がもしこれを守ったとしたら、幾度かその名声と領土とを失ったことであろう」(君主論、君主の契約履行について)
韓非もまた国家至上主義の立場をとった。いっさいの善悪是非は富国強兵という目的を中心として判断しようとした。これは弱肉強食の戦国時代にあって韓非がとりわけ弱小国に生まれ、国を強くする以外に方法がなかったことの反映と見るべきものであろう。
この目的に奉仕するためには、個々人の利已主義を封じて国家の利益に調和せしめる必要があった。
そして、最も効果のある方法として彼が考えたものは、法と術、すなわち統治上の尺度としての法律と、臣下の阿諛迎合を避けるための技術である。
韓非が法を統治上の尺度として主張したのは、人間の功名心と恐怖心を利用して、個人の利益を国家の利益に合致せしめようとしたのであるが、同時に、五百年に一人出るか、千年に一人出るか、わからないような天才的政治家に期待するよりも、凡庸な腕しかもたない政治家によっても運営できるような政治機構を作ろうとしたのだ、と考えることもできる。
「もし人主となって、役人たちのやることをすみずみまで監督しようとすれば、いくら日が長くとも、いくつ体があってもたりないであろう。上の者が目で見れば、目で見えるところを飾り、耳で聞けば、声を飾り、心を用いれば、礼を厚くしようとする。むかしの偉い王たちは目と耳と心ではふじゅうぶんと考え、自分の能力を過信することを避けて、法律により賞罰を明らかにしようとしたのである」(有度)
ところで、法とは、今日われわれが社会生活を営んでいくうえで守ることを要求されている最低線の規則ばかりではなく、国家の利益に奉仕するような仕事に対するごほうび――勲章をくれてやったり、年金や一時金をくれてやったり、あるいは税金を免除してやったりすること――をも含むものと韓非は考えている。
刑と徳、あるいは罰と賞は為政者の武器であって、いわば虎の牙のごときものである。
虎が犬を服するのは、その牙の威力によるものであるが、もし犬に牙を与えれば、逆に犬が虎を支配するようになるであろう。
だから、もし君主が臣下のある者に聞いて賞罰を決定するようになれば、国民はみなその人を怖れ、逆に君主を侮るようになる。
「むかし、齊の田常は国王の簡公から爵禄を与える権限をゆだねられた。彼は家来たちにぞんぶんのほうびをとらせ、また穀物を百姓に与えるとき、特別に大誉な桝を作って百姓たちを喜ばせた。そのため簡公は徳を失い、ついには殺されてしまった。また朱の子罕は国王に向かって、ごほうびをもらえば人民は喜びますから王様ご自身でお与えください、刑罰は人民の憎むものですから私が憎まれ役を買いましょうと申し出た。刑罰の権を子罕に握られたために、人民はみな子罕を恐れ、やがて宋君もまた殺されてしまった」(二柄)
では法とはいかなるものであろうか。一言でいえば、社会秩序を保ち、国家の目的に合致せしめるためのコンパスのようなものである。
「法術を捨てて、心任せの政治をやれば、堯のような名君でも一国を治めることはできない。コンパスを用いないで、あてずっぽうにえがけば、奚仲のような名匠でも一つの円をえがくことはできない。物差しを廃して長短を測ろうとすれば、王爾のような名大工でも、一本の柱を二等分することができない。反対にもし、法術を守れば、ボンクラな君主でも、またコンパスや物差しを使わせれば、たいして熟練していない大工でも、よくその目的を達することができるのである」(用人)
すなわち、政治とは一日として中断することのないものであるにもかかわらず、すぐれた政治家は必ずしも生まれてくるとはかぎらないから、英雄や天才をたのみにするよりも、凡庸な君主でもそれを用うればなんとかやっていけるようなコンパスを発明したほうがよい。
この「法のコンパス」はたとえてみれば、虎を飼いならすための檻のようなものである。
檻を作るのは鼠に備えるためではなく、弱い者をして虎を服せしめるためのものである。
「むかし、尾生という男は橋の下で女とあいびきの約束をしたが、約束の時間が過ぎても女がやって来ないので、柱を抱いて死んでしまった。忠臣比干は自分の諫言が容れられないで死を選んだ。法を作るのは、尾生のようなバカ正直者や比干のような忠臣をたのまないで、人間が互いに相手をだまさないようにするためのものである」(守道)
もし、法が正しく厳格に運用されるようになれば、政治家や役人はウソやゴマカシではやっていけないことを自覚するようになる。私利私欲を追求したり、他人をおとしいれたりして、しかもなお安全であろうと思うのは、千斤の重荷を担いで深淵に飛び込み、なお助かりたいと願うようなものであろう。そう思わせることが必要なのである。


←前章へ

   

次章へ→
目次へ
ホーム
最新記事へ