★ Sさんからのお便り (9月17日付)

世賓さん、こんにちは。
M.I.と申します。
星占い、いつも楽しくませていただいております。

さて、実は私、以前からずっと気になっていたことがあるのです。

イエス・キリストの誕生日は十二月二十五日。
お釈迦さまの誕生日は四月八日。

ということは、西洋占星術ではキリスト様は山羊座、
お釈迦様は牡羊座ということに……なるんですか?
それとも神様や仏様になった人については、
生れ月の星座は『ナシ』になってしまうのでしょうか。

個人的にはキリスト様やお釈迦様についても
星座は『アリ』だと面白いなあと思っているのですが。

だって、キリスト様が「考え方が堅く、いつも物事の順番を決めています。
……(中略)……
引き受けたことは必ず最後までやりますが、計算高いので、
引き受けたらソ ンという時は決して安請け合いはしません。」
とか、
お釈迦様が
「 好き嫌いが激しく、好きな人とは自分勝手にいっしょにいたがります。
ひとたび目的を決めるや、プロセスを無視し、一足飛びにそこに行こうとします。
そんな時には、人のアドバイスや周囲の状況など、
とんと目にも耳にも入りません。」
(「」内は世賓さんの星占い本文より引用)

なんて、考えるだけで楽しいですものね。

このあたり、占星術ではどのように考えられているのでしょうか。
また、世賓さんはどのようにお考えでしょうか。
よろしければ、この場を借りて教えていただけると幸いです。
よろしくお願いいたします。

M.I. 拝


★ さいぱんさんからM.I.さんへ

面白い質問ですね。
先ず、キリストや釈迦の魂は確かに生まれた時から
神(天地)につながる特別仕立てであったと思います。
ただし、双方とも生きている間にキリストになったり、
釈迦として完成して行ったのであって、
もし途中で天命を投げ出したり、小さな欲に足を掬われたりしていたら、
今の世に伝えられる存在になっていなかったでしょう。

話が少々複雑になりますが、人には3つの年齢、
「実年齢」と
それぞれの来し方によって形成される「熟年齢」、
そして、もっと深くに「魂年齢」
というのがあると私は思っています。
実年齢はその人の実際の歳だからわかるとして、
熟年齢は、生まれてからそれまでの良いこと悪いこと
全ての材料をどう消化して成長、熟してきたか。
これは25歳過ぎると同年代と言っても共通点は社会背景程度となり、
熟成度(発酵度と言いかえてもいいでしょう)にはかなり個人差が出てきます。
味わい、幅、魅力、人間性、精神年齢など様々に表現できるけれど、
要は歳月によって創られるオリジナリティー
(この世にひとつしかない何か)の濃さであると考えられます。
次は問題の「魂年齢」。
魂には生まれつき、古いものと比較的新しいもの
(原始的なもの、幼いものを含めて)があると私は信じています。
どうやってみわけるかなどと聞かれても困る。
無理やり喩えるとしたら、小さい子供なのに不思議なほど思いやりがあり、
判断が正しく、道理がわかる子がいるでしょう。
苦しむポイントが私的な事象に留まらず大局的だったり、
驚くほど博愛だったりする子がいるでしょう。
こういう人たちは始めから見えている景色が違う。
誤解を恐れずに言うなら、魂のレベルが違うのです。

宇宙場では善悪も上下も大小もありませんが、
道理と法則はちゃんと働いています。
星の運びや流れはあるルールに添って動いていて、
地球もそのリズムに従って廻っている。
その地球に生きる私たちも
当然ながら全体のルールに影響されて生きています。
その大きなルールの中にある宇宙の素晴らしい点は、
ひとつとして同じものがないことで、受取る個性、ポジションによって
同じリズムや事柄の意味合いが決定的に変わってくるところにあります。
もうひとつ人の生において忘れてはならない宝ものがあります。
それは「選べる」という自由。
私たちの周囲は常に360度、
いえ八方四方球状に広がっていて“どこに行っても、何をしても良いよ”
と大らかにかまえています。
私たちがそう思えないのは
人間が決めた規則や利害に縛られているからであって、
本物の勇気さえあれば本来決定権は自らが持っていることに気付く筈です。
キリストや釈迦は当時の社会に妥協することなく、
天地の道理に随い自らに語りかけて信念を貫いています。
自分らしく自由に生きて自由に死ぬこと(死を避けたりしない)で、
個としての完成を実現したのです。
あのね、これは偉い人だけの話だと思うでしょう。
でも多分勇気さえあれば、
苦しんだり独りぽっちになることを恐れない強さがあれば、
人は誰でも自由
(自らのマイナスや固定観念に縛られない)なのではないかしら。

さて、前に“誤解を恐れずに”と書いたように、
魂のレベルと聞いた途端に
“あら、私の魂はいくつくらい?”
“やっぱり古いほうが上なのか”
“年代物を簡単に手に入れる方法はないのかしら”
などなど。
勝手な言い分が頭(新皮質)を駆け巡ったのではないかと想います。
もう、この際、はっきり申し上げますが、違うったら違います。
人の脳のタテ、ヨコ、ナナメの荒い細胞では計り知れないスケール
(大きいもの、小さいもの)のものが沢山あるの。
多くの事柄は、時が着々と変化をさせ、
時は、天地とその人の選択が入り混ざって
絶妙な創造物をこの世に送りだしているのです。
“私には関係なさそう”ですって?
そりゃ、現在、
いろいろなことに押し流されて生活をしていたいたとしたらそう想うでしょう。
でも、あなただって可能性のひとつには違いありません。
大袈裟だと感じるかも知れないけれど、
人がその人らしく完成して行くことが宇宙レベルでは美しく望ましい姿なのです。
人と較べる必要は全くなく、
自分の良心や尺度の有り様をを高めていきましょう。
生きている間に自分にどんな姿(表も中も)与えられるか、
一度でいいから本気で考えてみろ!
と、つい大声になったところで話が大きく外れていることに気が付きました。

えーと、何でしたっけ?
そうそう、キリストと釈迦のお話でしたっけね。
どんな偉人も肉体をもってこの世に生まれた限り、
ある時期、その癖や因縁、因果に苦しむのだそうです。
ただ、凡人と違うのは、
勇気と信念をもってその壁を乗り越えてしまうところにあります。
やがて成熟度は増し、善悪も、損得も遂には生死さえ拘らない自由を得て、
限りなく心理に近づいて行くのではないでしょうか。
以上は、宇宙にたったひとつの私の個人的意見であり、
占星術を代表するものではありませんので、なにとぞ悪しからず。

さいぱん

2002年9月25日(水)

 
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