誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第1回
キャッチボールのすゝめ

子供の頃、近所の原っぱや人通りの少ない路地などで、
よくキャッチボールをやっていた。
子供同士もあれば父と子もあり、
会社の同僚同士というのもあった。
王、長嶋が活躍していたプロ野球の黄金時代
という時代背景もあったのだろう、
どの街角でも人々は倦かずにボールを投げ合っていた。
キャッチボールは国民的なスポーツ
ともいうべきものだったのである。

ところが最近、そのキャッチボールをとんと見かけなくなった。
原っぱが消え、
公園や路上での球技が禁止されているためでもあろう、
三角ベースの草野球世代からすると
一抹の淋しさを禁じ得ない。
また不幸な事件も起きた。
公園でキャッチボールをしていた子供たちのボールが、
近くの小学生の胸に当たり、死亡したという事件だ。
裁判所はキャッチボールをしていた少年二人の両親に対し
約6000万円の慰謝料の支払いを命じた。

加害児童には
「ボールが他人に当たり死亡することもあるという
 予見可能性があった」
というわけだが、
そんなことを考えながら
ボール遊びに興じている子などいない。
これでは、子供は危険な(?)球技などせず、
部屋にこもってテレビゲームでもしていろというに等しい。
こうした“迷裁き”がインドア派の増殖を助け、
日蔭のモヤシのような生気のない子供を生み出すのである。

ことさらキャッチボールの肩を持つのは、
なにも五十男の懐古趣味のせいばかりではない。
キャッチボールが人と人との心を通い合わせる
格好のスポーツだからだ。
その要諦は相手が捕球しやすい球を投げてやること。
つまり相手を思いやる気持ちが大切なのだ。
息子相手なら、
時にケガをしそうなくらいの速球を投げ込んでもいい。
父親のすごさを思い知らせると同時に、
男はどんな困難にも立ち向かうのだ、
というメッセージをこめてやる。

キャッチボールには無言の会話がある。
ボールを受けた感触で、
相手の強さも弱さも、心のひだまでも読み取れるからだ。
近頃、やけに“自己チュウ”の子供たちが増えたのは
キャッチボールをしなくなり、
相手の気持ちを思いやる訓練が
なされていないためではないのか。
だからおやじたちよ、
父親の威厳と思いやりの精神を叩き込むために、
愛息の小さな胸に
活きのいいボールをびしびし投げ込んでやろう。

2005年12月2日(金)更新
- このコラムは連載終了いたしました -

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■嶋中 労(しまなか・ろう)
1952年埼玉県・川越市生まれ。慶應義塾大学卒業後、出版社に勤務。月刊誌編集長を経て、フリーとして独立。20年来、家事百般をこなし、特に料理に強い。最近は教育問題に興味を持ち、いろいろな場で発言している。主な著書に『ぼくが料理人になったわけ』(中公文庫)『おやじの世直し』『築地のしきたり』(共にNHK生活人新書)、最新刊に『コーヒーに憑かれた男たち』(中央公論新社)がある。


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