二人の母に育てられて 家をとび出して父と同棲した母

生まれた時(一九二四年)、私には二人の母親がいた。一夫多妻が認められていた台湾で妻妾が同じ屋根の下で暮らし、それぞれの子供たちが同じ円卓を囲んでいる光景は必ずしも珍しくなかったが、私の場合はいささか事情が異なっていた。というのは、私の生母は久留米市生まれの内地人(当時、日本人はそう呼ばれていた)であり、しかも台湾人である私の父は当時、すでに妻がいたからである。

父・邱清海(クーチェンハイ)と母・堤八重がどこでどうやって知り合いになり、どういう具合に結ばれたかは、私がまだ生まれる前の出来事だから私にはよくわからない。本人たちの口からきいたこともない。
しかし、おおよその見当はつく。若い頃の私の父はなかなかのハンサムでおしゃれだった。おしゃれといっても、今日の私たちが想像するいでたちとはほど遠いものである。私自身は父が四十歳になってからの子供だから、私の意識の中にある父親はすでに中年期に入っていた。
父はネクタイや革靴を嫌い、ズボンは西洋ズボンだったが、ベルトは母親の和服に使う帯紐を代わりに使っていた。中国服のズボンでは前開きがなくて不便だし、ベルトを使わずに前を合わせて押し込むだけではすぐにもゆるんでしまう。また、セビロや洋風のジャケットは肩が凝るといって、もっぱら中国服の上着を常用した。夏は麻のほかに、竹紗という薄い絹地を使い、ボタンは布製の代わりに洋服のボタンをつけさせた。どのくらいおしゃれかというと、冬物は日本の呉服屋に羽織の裏地に使う山水画を織り込んだ絹織物を買って来させて、中国服の裏地として使った。
自分の着るものに創意工夫のあとが見られるだけでなく、帯紐に懐中時計を金の長いクサリで結びつけ、ズボンの右のポケットに入れた。また革靴は足に合わないといって日本の草履を穿いた。考えてみれば、台湾人でも日本人でもない異様な身なりで、今風にいえばバサラ、当時としては創意工夫の塊りのようないでたちであった。この気質は、現にうちの二男の世原に受け継がれており、ビデオ・アートで二回も続けてグランプリを受賞した息子は決して決して世の常識に従った服の着方をしたりはしない。隔世遺伝は意外なところで起こるものである。
父はこうした身なりをした上に、外出する前にハンカチに香水をつけて、首まわりとか手足にふりかけた。香水プンプンはカッコいいとは思えないが、遠くからでも匂うくらいの香水を発散させながら、友人たちと夜の会食や花街にくり出して行くのである。私は長男でもあり、姉も、私の次もそのまた次も女であったために、特別に可愛がられ、夜の宴会にもしょっちゅうお伴をさせられた。酒席でオトナたちが拳をやって酒を飲んでいる間、酒家女(チュウカアルウ)たちは自分らの歯で西瓜の種をていねいに割って小さな皿に山盛りにしてくれた。
私の生まれた台南市は人口十二、三万人くらいの歴史の古い街で、街には芝居のできる宮古座という小屋と、世界館という映画館があった。宴会のあと二次会のある時は、父は私を誰かに送らせて家に帰らせたが、そうでない時は、父が映画を見に行く相手をさせられた。それも三日にあげず続いたので、小学生の私は林長二郎とか、嵐寛寿郎とか、山田五十鈴とか、鈴木澄子とか、逢初夢子とかいった名前を覚えさせられた。
そういう自分の記憶をさかのぼっても、私の父はかなり女にもてたように思う。それに父はろくに学校も行っていなかったし、また格式ある家の生まれでもなかったが、自分で商売をやる才能には恵まれていて、若い時から台南市の西門市場で商売をしていた。当時、台南市には(台湾)歩兵第二連隊があって、そこの兵隊が食べる野菜の類いを納入していた。この仕事を父が自分で見つけてきたのか、それとも母の内助の功によって手に入れたのか、ききそびれてしまったが、とにかくこの仕事によって私の一家は世のサラリーマンたちとは比べ物にならないほど豊かな生活を送らせてもらうことができた。
母は同じ西門市場にある牛肉屋の長女だった。ただし、これには多少の註釈が要る。牛肉の店をもっていた安武捨次郎という私の祖父は、日清戦争後、台湾を接収するために北白川宮能久親王が澳底というところへ上陸する時の一番ボートに乗っていた下士官で、その時の功労を認められて、台湾に定住するにあたって開墾用の土地三百町歩の払い下げを受けた。台南市から少し北に向かった新化というところにあって、そこで牧場をひらき、和牛を日本から運んできて飼育する事業に従事していた。母の実父は堤辰次郎という製粉業の店主で、娘が生まれてからすぐ他界したため、祖母が連れ子をして安武家に嫁いだのである。
安武家に嫁いでから祖母は三女一男をもうけたが、連れ子だった私の母はちゃんと内地に行かされて、東京女子高等商業学校で専門教育を受けた。台南市に帰ってきて親の手伝いをしているうちに、ハンサムでよくもてる父と知り合いになり、うまく言いくるめられてしまったのではないかと思う。
「台湾人と一緒になるなんてとんでもない話だ。しかも選りに選って結婚している男にだまされるなんて」というのが、当時の安武の一家の空気だったに違いない。結局、母は親から勘当され、家をとび出して父と同棲することになった。大正七、八年の頃のことである。

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