初めて経験した差別待遇

さて、こうした複雑な家庭に育った私にも、学校に通う年齢がやってきた。母はさきにも述べたように教育熱心だったから、まず私を幼稚園に入れた。当時の台湾の国民学校には小学校と公学校の区別があって、小学校は日本内地から来ていた内地人の子弟のための学校、公学校は本島人の子弟のための学校であった。本島人の子供である私は本来なら公学校に入学するのが本筋だったが、母親の関係で内地人の通う台南市の南門小学校に入れられた。内台融和と称して、土豪劣紳というか、本島人でも有力者の息子だけが一クラスに五名ほど選ばれて、特に内地人の間にまじって勉強することを許されたのである。
一年生の時の担任は女の藤井先生だった。二年生から五年生までは男の中村先生だった。私は知能的には奥手のほうらしく、一、二、三年生の頃はまったく目立たない存在だった。それがどうしたわけか四年生の頃からめきめき頭角を現わし、ついにクラス内で一、二番を争う成績をあげるようになった。子供たちは正直だから、級長選挙をやったところ、私が級長に選ばれ、岩本君という内地人が副級長に選ばれた。それを見た担任の中村先生は、内地人が本島人に号令をかけられるのはまずいと思ったらしく、副級長の岩本君を級長に格上げし、私を副級長に格下げした。これが私が学校へ入って初めて経験した差別待遇であった。しかし、差別待遇はこの時一回きりということではなく、次々と起こる差別待遇のはじまりにすぎなかった。
南門小学校六年生の頃

六年生になると、級担任が蔵原先生に代わった。蔵原先生はとてもきびしい先生で、学校中からおそれられていた。その分だけ実は教育に情熱を持った先生でもあった。六年生に進級したとたんに、六年生四クラス合同の模擬試験があった。男子二クラス、女子ニクラス、あわせて約二百二十名の試験で、国語(日本語のこと)、算術両方とも百点満点は私一人だった。蔵原先生は私を職員室によんで親に学校へ来てほしいとおっしゃった。家に帰ってそのことを伝えると、母親は子供のことで叱言でも言われるのではないかと気をもみながら、学校へ駆けつけた。先生の用件というのは、邱君は成績抜群だから台北高等学校の尋常科を受験してみないかという打ち合わせだった。
台北高校の尋常科と言えば、当時、台湾きっての名門校だった。全島小公学校の一番二番が四百名集まってたった四十名しか入学できなかった。南門小学校を代表して本島人の私が受験に行くことは名誉この上ないことだった。母は一も二もなく賛成したが、父は必ずしも賛成ではなかった。父は私を地元の商業専修学校にでもやり、卒業したら自分の助手に使おうと思っていたからである。うっかり台北高校の尋常科に入れたら、さらに無試験で高等学校に進学してしまう。
高校が終わったら次は大学に行く。三年で使える息子が家へ帰ってくるまでに少なくとも十年はかかってしまう。いくら学問を積んでもどうせ出世はしないんだし、学問を積んだからといって家にお金を入れてくれるようになるとは限らない。それが父親の意見だった。
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