私たちがずっと住んでいた二階建の家は、すぐお隣りの氷屋の持ち家で、氷屋は父からお金を借りていた。大家が店子から借金するのもおかしな話だが、借金の利息で大家に家賃を払うと、毎月おつりがきた。自分で家を買って住んでいるより、このほうがトクだと子供の頃によくきかされた。しかし、こうした小ざかしさは、戦後の猛烈なインフレを前にしては一切、役に立たなかった。大家に貸していたお金は二千円で、貸した頃は家が一軒建つほどの金額であったが、猛烈なインフレがはじまると、靴一足が四千円になった。隣りの大家は靴半足分の代金で何十年借りていたお金を父に返済してきたのである。
インフレのさなかだったから、金利は高かった。月20%といったレートが当たり前になっていた。父は自分の全財産をはたいて三万円の現金をつくり、それを人に貸して月に六千円の金利をもらい、ホクホクしていた。ちょうどそこへ私が東京から帰ってきた。私は東大経済学部で、第一次大戦後のドイツのインフレの話を聞いていた。真面目で倹約家の兄貴と酒飲みで気前のよい弟がいて、兄貴は食う物も食わずにせっせと貯金をした。弟は酒びたりで暮らし、ウィスキーやビールの瓶を裏庭に積み重ねておいた。インフレが起こると、弟の空瓶を売ったお金のほうが、一生かかって貯金をした兄貴のお金よりも多くなった。
また月給日になると、工場の門の外に奥さんたちが待ちかまえていて、ご主人たちがもらった月給を渡すと、妻たちが買物をするために店屋まで走った。どうして走ったかというと、歩いているうちに物価が上がったから……というのがインフレについて私の仕入れた知識であった。まさにそれと同じことが私の帰りついた生まれ故郷で起こりつつあった。金利もなかなか払えなかった隣りの氷屋が、ポーンと元利合計耳を揃えて返してきたのが何よりの証拠であった。
私は父にインフレの話をし、お金を人に貸して利息をもらっていたのでは、元金が目減りしてすぐ全財産を失ってしまうからやめたほうがいいと忠告した。父は真顔になって「お前はバカだな」と私を怒鳴りつけた。「三万円貸したら、月に六千円も収入がある。いまなら三千円で生活できるから、毎月、元金がふえていく。たったこれだけのリクツもわからないのか」
それに対して私は、金利が高いのはお金の値打ちが急速に減りつつあるからであって、一年もしないうちに三万円が三千円の値打ちもなくなってしまう。それを防ぐためには、野菜より安い値段で取り引きされている砂糖を仕入れてきて家の中にストックしておいたほうがいいと主張した。それを聞くと父はいよいよ頭にきて、「せっかく大学まで出してやったのに、たったそれだけのリクツもわからないとは何事か。三万円は一年たっても三万円で、どうして三万円が三千円になってしまうんだ。お前は本当にバカだ」と私を叱りとばした。私は父がお金の額面に固執し、お金とはそれを使って買える物の大きさによって値打ちの変わるものだ、ということを理解していないことにやっと気がついた。半世紀も日本の統治下にあって、安定した物価に慣れてきた父にとっては無理もない話だが、この調子ではやがて全財産を失うだろうと思った。しかし、手を拱いて見ているよりほかなかった。
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