いつまで待っても埒があかないので、しびれをきらしたデモ隊は方向を変えて行政長官公署に向って行進を開始した。もと台北市役所あとの行政長官公署前の広場は、たちまち怒れる市民で足の踏み場もないようになっていた。
「陳儀出てこい」
「猪官(チークワン・ブタ役人)出てこい」
「殺人犯を銃殺にせい」
と群衆は口々に叫んだ。もしこの時、陳儀がベランダに出て誠意を示す演説でもぶてば、問題は簡単におさまったかもしれない。しかし、陳儀自身おそらく内心忸怩たるものがあっただろうし、怒れる群衆に直面することを極端に恐れたので、ついに姿を現わさなかった。そればかりか、三時間たっても群衆が解散しないのを見ると、陳儀は武装した軍隊をベランダに出して「撃て!」と命じた。長官公署の上から機銃掃射を受けてバタバタと倒れる人々の血まみれの姿を見ると、群衆はにわかに殺気立った。物見高い見物人たちの中には外省人もまじっていたが、外省人たちはたちまち復讐の対象となった。怒り狂った群衆は幾隊にも分かれて、専売局を破壊し、煙草を倉庫から運び出して道の真ん中に山と積んで火をつけた。放送局を占領した一隊はすぐ全島に向かって「省政自治」の要求を放送しはじめた。
どこから見ても計画的な反政府暴動とは言いがたかった。しかし、放送局を台湾人が占領したことがわかると、計画的にやったのではないかと思いたくなるほど短時日のうちに、台湾中の政府機関は台湾人によって占領されてしまった。外省人は善人悪人の見境なしに殴打され、天井裏にかくれたり、日本人が着ていたモンペ姿に身をやつさなければならなかった。かつて日本軍の訓練を受けた台湾人の青年たちは、「天に代りて不義を討つ」を高唱しながら大道を行進し、自分らで組織した治安部隊でバリケードを築いて通行人を誰何した。外省人に間違えられないために台湾人の女は中国服を捨てて洋服に着がえたが、外省人の中には台湾人と同じ福建語を喋る者もあったので、怪しげな者を見ると、「おい、『君が代』を歌ってみろ」と強制した。台湾人なら誰でも「君が代」が歌えたが、陳儀について台湾に来た外省人にはそれが歌えなかったからである。
こうした騒動を前にして、台湾人の有力者や指導者は唖然としてしばしなすところを知らなかった。しかし、無政府状態のまま放置しておくこともできなかったので、省参議員や台北市会議員が中心になって、二・二八事件処理委員会を結成し、治安維持にあたる一方で、陳儀を相手に政治交渉をはじめた。
会議は連日のように台北市のド真ん中にある中山堂(もとの公会堂)で行なわれた。私は仕事をほったらかしにして、様子を見るために中山堂まで出かけて行ったが、会議室には入れてもらえなかった。まだ年が若かったし、有力者たちの目から見たら、物の数に入らなかったからである。
実はそのおかげで私は銃殺や投獄をかろうじて免れた。処理委員会に名を連ねた私の先輩や有力者は、大陸から接軍が到着すると、片っぱしから連行され、それっきり二度と姿を見せることがなかった。もし私がもう少し年をくっているか、もう少し社会的に地位があったら、おそらく同じ運命にあっていたことだろう。
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