翌朝、厦門を発って一時間後には無事、香港の啓徳飛行場に着いた。
廖文毅氏がわざわざ私を迎えに来てくれていた。すぐその足で金巴利道(キンバリー・ロード)にあるアパートに連れて行かれ、荷物を置くと、昼食をしようと案内されて、香港島側の浅水湾(ツェンスイワン)にあるリパルス・ベイ・ホテルに行った。コローニアル風の建物で、海の見えるバルコニーに陣取っていると、突然、自分が船底の暗闇の中から一等のデッキに出てきたような錯覚におちいった。
「台湾と香港はどうしてこんなにも違うのだろう?こんなところで一生暮らせたら、どんなに素晴しいことか」
と私は目の前がくらくらするのを禁ずることができなかった。
その日から私は、焼いて捨てた請願書の草稿の復原に打ち込んだ。二日もしないうちに、私が日本語で書いた草稿はできあがった。廖文毅氏がそれを英文に打ち直すのにさらに二日かかった。
それから廖氏は私をアメリカ総領事館に連れて行って、サービスという名前の副領事に引き合わせてくれた。この人が独立運動の担当者で、廖氏の英文をアメリカ人にも通用するホンモノの英語になおす作業を手伝ってくれた。もう一度タイプで打ち直した請願書に、台湾再解放同盟とか、台湾独立同盟の主席のサインをして、国連事務総長あてに送り出したのは、私が香港に到着してから六日目のことであった。翌日、私は任務を終えて、再び香港から台南市の飛行場へ舞い戻った。
台南市に着いた私は、自分の家には寄らずに許武勇さんの家に直行した。許さんと兄さんを前にして、どうか自分が香港に行ったことはくれぐれも内密にしておいてほしいと頼んでから、やっと安堵の胸を撫でおろして台北市へ向った。台北市へ戻ると、何食わぬ顔をして元の職場に帰った。見合いの結果はどうかときかれたくらいなもので、誰一人私の行動を疑う者はなかった。
私はすでに研究員から調査科長に昇進していた。調査科長は、物価の動きなどを調べて報告を書く必要があったので、よく三輪車に乗って大稲や城内の問屋をとび廻っていた。香港から帰ってきたばかりの私は、あの一週間の香港の印象があまりにも強烈だったせいで、もう何を見てもうわの空、心はとっくに台湾にはなかった。おそらく香港に行ってやったことがいつかはおおっぴらになるだろうから、身の安全のことも考えなければならなかった。
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