わが青春の香港

編物に明け暮れた台湾のロレンス 廖文毅博士邸にころがり込む

国民政府に弓を引いた私と荘要伝さんが、生命からがら別々の飛行機に乗って、香港まで辿りついたのは一九四八年十月末のことだった。
ペニンシュラ・ホテルの正面玄関で荘さんと無事顔を合わせたが、私も荘さんも香港では落ち着く先がなかったから、敢りあえず廖文毅さんのところへころがり込むつもりでいた。私は夏に国連宛の請願書を書きに来た時に一週間ばかり世話になったので、廖さんの家のことはだいたいわかっていたが、荘さんは廖さんに会うのもはじめてなら、廖さんの家庭の事情もよく知らなかった。ただ、南京のスチュワート駐華米大使に荘さんが会いに行った時に、廖文毅さんの兄さんで金陵大学の教授をしていた廖文奎博士に道案内をしてもらったので、間接的にはお互いのことは知っていた。もっとも、たとえ初対面であっても道を同じくすれば、すぐにもお互いを理解することができる。廖さんは快く荘さんと私を受け入れてくれ、自分がやっていることの概要を説明したり、台湾の独立運動に力を貸してくれる外交畑の人々やジャーナリストの面々を紹介してくれたりした。
当時の私はまだ二十四歳で、西も東もわからなかったから、廖文毅博士の戦略を批判するような立場にいなかった。しかし、荘要伝さんは戦争中、朝日新聞の特派員として香港に駐在したこともあり、台湾へ帰ってからも新聞記者をやっている時に政府の言論統制に不満で職をなげうったくらいだから、自分の意見もあり、人と妥協しない頑固さもあった。
私たちがころがり込んだ頃の廖文毅邸は、九龍側の金巴利道(キンバリー・ロード)諾士佛台(ノッシーファットイ)一号というところにあった。家主は二階に住んでいて、その一階を借りていた。香港には珍しくちょっとした庭があって、犬好きの廖さんはイングリツシュ・セッター、アイリッシュ・セッター、ダンシュンドなど五匹の犬を飼っていた。家の中に入ると、ちょっとした応接間があって、寝室が三つ、そのうちメインには廖博士夫婦、もう一つの小さな寝室には女の子と男の子、そして、やや大きな寝室は、亡命してころがり込んできた若者たちに開放されていた。裏へ出ると、棟続きに使用人のための部屋が二つと台所があり、別に物置が一つあったが、廖さんは物置を犬小屋にしていた。
大部屋にはすでに二人先客があった。二人とも廖博士と同じ西螺の出身で、書生のような仕事をしていた。別にこれまた西螺の大地主の息子で廖兄弟というのが香港の学校にかよっていた。
親が知り合いというので、ちゃんと下宿代を払って一緒に住んでいたが、こちらの廖兄弟は政治とは全くかかわりがなかったし、のちに一人はバレエ・ダンサーになり、弟のほうは香港大学の建築科を卒業して香港政府に入り、政務司という中国人としては最も地位の高いナンバー・スリーにまで出世した。しかし、その頃はまだ高校生だった。
そこへ荘さんと私と二人してころがり込んだから、満員のところが超満員になった。一番おかんむりなのは、阿二(アーイー)という阿媽さんで、居候がふえると、食事の用意もふえるし、洗う皿の数もふえる。それが不満で居候にはこれ見よがしにつらくあたる。たとえば、風呂に入ったあと下着を洗濯物籠に入れておくと、荘さんと私の分だけふりわけてそのまま残しておくようなことを平気でやった。
「香港の女中さんは、家族何人の世話をするからいくら、ということで月給の取りきめをしているから、それより人数がふえると、もっとお金を要求するんだよ。オレたち、別にチップをやらないと、何もやってくれないのは当り前だよ」
と香港の風習をよく知っている荘さんが私にわけを話してくれた。
荘さんは台湾を出てくる時、家族に残してきた生活費も私から無心したくらいだから、お金はまったく持っていなかった。仕方ないから私は後生大事に持っていたお金の中から香港ドルの十ドル紙幣を二枚抜き出して、「じゃ、これを僕たち二人から、と言って渡して下さい」と言って手渡した。その二十ドルを荘さんが阿二に渡したのはいいが、私から出たお金だと言わなかったから、阿媽さんは荘さんがチップをくれたものと勘違いした。
その日から、荘さんの下着類を洗うようになったが、私の下着は以前と同じようにきちんと選び出して籠の中に残された。私は怒るに怒れず、泣くに泣けず、「革命の志士が香港くんだりに来て、女中さんにバカにされているんだからなあ」と身の不しあわせを嘆くばかりであった。
荘さんは約一ヵ月ほども香港にいただろうか。はじめて廖さんが台湾独立ののろしをあげた時はニュース・バリューがあったから、各通訊社が喜んで取り上げてくれたが、二回目、三回目になると、新聞にも出ないようになった。それでも廖さんは懲りずに、APやUPの支局長に会い、また定期的にアメリカをはじめ各国の政府にあてて請願書を発送していた。その活動の範囲と力量のほどがだんだんわかってきた荘さんは、「自分がここにいてもやることはない。日本に行ってマッカーサー元帥に働きかけたり、日本にいる台湾人を糾合する運動をしたい」と言い出した。
「日本に行きたい」と言っても、パスポートもなければ、入国ビザもなかった。当時は、日本人はまだ、外国にも出られなかったが、台湾や香港の人も日本には入れなかった。しかし、台湾からは砂糖を積んだ船が日本に通っていたし、香港からは貨物船が原料や食糧を積んで日本の港に出入りしていたので、その船の中にもぐり込んで行けば、港を守備しているMPの目をかすめて上陸することができた。
船員に化けて渡航するヤミ船の相場は香港ドルの千ドルだった。米ドルにすると、二百ドルくらいだったが、当時としては大金だった。そのお金を廖さんが出してくれたので、荘さんは間もなく香港からいなくなった。
東京へ舞い戻った荘さんは台湾独立連盟という組織をつくり、占領軍司令部に出入りするようになった。しかし、ある時、夜寝ていて突然、息絶えてしまった。暗殺されたのではないかという噂も立ったが、真偽のほどはわからない。思ったことはガムシャラにやらないと気のすまない直情径行の人であったが、妻子と離れ離れになって淋しい最期であった。

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