阿片戦争のあとの南京条約で、香港を割譲する時、イギリスと清朝政府の間で、中国人が香港に出入りすることに対しては制限しないという条文が取りかわされていた。だから内戦がはじまると、資本家からその日暮らしの貧乏人まで、戦乱をおそれた難民が大挙して香港へ流れ込んでも、香港政府としてはそれを食い止める方法がなかった。なにしろ国民政府の敗けっぷりも見事だったから、地方の軍閥や地主は財産を処分したり、兵隊を連れて撤退するだけの時間的な余裕がない。こういう時は金の延棒とか、ダイヤ、翡翠の類いでないと持って逃げられないし、早くから米ドルに換えて香港とかスイスに預金していた人は別だが、大金持も一瞬にして貧乏人に落魄(らくはく)するきわどい時代であった。
私自身、台北を出る時、ふところに米ドルで千ドルしか持っていなかった。もちろん、戦争直後の千ドルはいまの千ドルに比べると大きなお金であったが、お金儲けの方法も知らず、他に収入の道のない男のポケットの千ドルは、一ドル使えば一ドルだけ減る心細い千ドルであった。さいわい、廖家に居候をしていたから部屋代と食事代は只であったが、外へ出るとショー・ウインドーには欲しい物がいくらでも並んでいた。自由港の香港は、日本などと違ってファッション製品から自家用自動車まですべての商品がまぶしいばかりに溢れていて、金のない若者にとっては高嶺の花というよりは目に毒であった。しかし、それにも懲りず、私は夕食後の散歩に、すぐ近くにあったギルマン・モーターズの新車の陳列されたショー・ウインドーの前を通ると、必ずその前に立ってしばらく中を覗き込んだ。
「いつか、あんな車が手に入るようになるといいね」
と言うと、若い廖兄弟は大地主の家に生まれ、大した苦労もしていないから、
「お金さえあれば、すぐに買えるよ」
と造作もないような相槌を打った。しかし、肝心のそのお金が私にはなかった。一ドルのお金を使うのにも何回も考えなければならない立場だったし、国民政府に叛旗をひるがえした以上、もはや帰るべき故郷もない流れ者でしかなかった。
著者亡命中の邱家一族 中央は父と母

それなのにショー・ウインドーを覗き込んでいると、すぐ難民の乞食がそばへ寄ってきて、お金の無心をする。あわてて歩き出すと、乞食はどこまでもついてきて、「一ドル下さい。お恵み下さい」と言い続ける。こちらも似たような境遇で、一ドルもらいたいのはこちらだと思うのに、どこまででもついてくるのである。本当に情けないとしか言いようのない日々であった。
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