もうその頃には私の小包商売はすっかり駄目になってしまっていた。香港から東京に送る商品は、大半が商杜を経由するようになってしまったので、中小貿易会杜の手がけるものはだんだん採算にのらなくなっていた。ならば香港で売れる日本商品を手がければいいだろうと思って、日本製のフィルムを扱ったこともあるが、換金できたのがやっとで、手数料にもならなかった。やむを得ず岳父の店の二階を借りてヨーロッパから工具類を輸入したこともあるが、これも商売にならなかった。戦後のドサクサに闇商人をやるくらいの器用さはあったが、どう見ても自分は一人前の商才を持ち合わせていないと思うよりほかなかった。
勝手なもので、こうなると香港は私にとって住みづらいところになってきた。お金、お金、お金と朝から晩までお金のことにしか夢中にならない町で、お金儲けもできないような人間は落伍者だった。私は真剣になってどこかに移住することを考えるようになった。ただ私はパスポートを持っていなかったし、台湾の国民政府に弓を引いた以上、台湾へ戻ることもできなかった。ならば九龍のゴタゴタした街中に住むのをやめて、少し郊外にあたる新界の沙田に土地を買ってパパイアを植えて暮らすことも考えた。そのために何回も沙田に土地を見に行った。日本には堅いアメリカ産の牛肉が輸入され、それを柔らかく料理をするパパインが欠乏していると教えられたからであった。
沙田はいまでこそ人口五十万もある一大郊外都市になっているが、あの当時はまだ畑が多く、畑の中の農家は石油ランプを使っていた。しかし、結局は百姓をするだけの自信がなく、果樹園の経営はあきらめてしまったが、もしあの時、沙田に広大な土地を買っていたら、あれだけ土地が値上がりしたのだから、あるいは香港でも屈指の土地成金になっていたかもしれない。私がそういうことを言うと、家内は笑って、「あなたのようなせっかちが、土地が値上がりするまでじっと辛抱できるわけがないでしょう。ちょっと値上がりしたところですぐにも売りとばしてしまって、いまも相変らず貧乏しているはずですよ」と全然取りあってくれない。
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