ない時間をいかに作るか
どうして同じ二十四時間しか持っていないのに、「時間のあまる人」もいれば、「時間の足りない人」もいるかというと、世の中にヒマな人と多忙な人がいるからではない。それは「寝食を忘れる」ような仕事を持っている人と持っていない人の違いなのである。
「時間」は物理的なものであり、客観的には誰しも同じ長さの時間しか持っていない。しかし、同じ時間を人によって長く感じたり、短く感じたり、また同じ人でも長くも短くも感じるとすれば、「時間」には客観的な捉え方のほかに主観的な捉え方があるからであろう。
たとえば、平均寿命が年々、延びているが、同じ七十四歳まで男が生きたとしても、長い長い単調な生き方の人もあれば、波欄万丈の、変化に富んだ、束の間の七十四歳もある。その場合、どちらが生きがいのある人生だったかといえば、もとより「物理的に長いのに、短く感じられる」一生であろうから、力一杯生きたいと思えば「あッという間にすぎてしまった」という主観的に短い時間の使い方をすればよいことになる。つまり上手に使ったかどうかは、もはや二十四時問の配分の仕方の問題ではなくて、ない時間をどうしてつくるか、という立場に身をおくことである。
ありあまる時間を持った人の時間は大して値打ちがないが、不足して「寝食を忘れる」ほどになると途端に貴重品化するのである。
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