解説

塩田丸男  

邱永漢さんとは、直接的には、雑誌の対談で二度ほどお目にかかっただけの御縁である。その対談で、邱さんの"偉大さ"をあらためて実感することになった。
仕事柄、講演を頼まれることが多い。私の場合は、サラリーマンを対象にした本を主として書いているのと、テレビでニュース解説を七年ほどつづけているので、そうした関係のテーマで講演の依頼を受ける。
ところが、最近つづけて、財テクについて講演をお願いします、という依頼があった。畑違いもはなはだしい。私はお金にはもっとも縁のない人生を送ってきたし、これからも多分そうだろう。縁もないし、実をいうと、あまり関心もない。
そんな私になんでまた財テク講演をさせるのですか、と代理店の人に問い返したら、
「だって、こないだ邱先生と対談なさっていたではありませんか」
という返事で、これにはほんとうにびっくりした。邱永漢と対談した、というだけで、財テクのベテランとして折紙がつくのである。
私が新聞記者だったころ、湯川秀樹博士が日本人としてはじめてノーベル賞を受賞した。湯川博士が街を歩くと、子供を連れたお母さんがぞろぞろやってきて、子供の頭をなでてくれ、と博士にせがむ、というゴシップが週刊誌に出ていたのを覚えている。
ノーベル賞受賞者に頭をなでてもらえば、子供の頭がよくなるだろう、という親心なのだろう。だったら、邱さんと二時間も差しで話をした私が財テクのベテランと他人から思われるのも無理もないかもしれない。
さて、この本だが、『野心家の時間割』というタイトルを見て、おや?と思った。サブ・タイトルも「人生の勝者となるための行動に」で、金のカの字も、マネーのマの字も、どこにもない。
直木賞作家からお金の専門家に"転職"したように、また新しい分野に、邱さんは挑戦なさったのか、とふと思ったのだ。
こういうところが、私のお金にヨワいところで、中身を開いて見れば、たちまち自分の浅慮に気づくことになる。
「タイム・イズ・マネー」というあまりにも有名なことわざがあるではないか。
両者は互換関係にある、と邱さんは書いていらっしゃるが、もっとズバリ、お金と時間は同じものだ、と考えていいのではないか。
時間に無頓着な人にお金はもうからない。
お金のことが分らない人に、時間について語る資格はない。
私のようにお金にあまり興味のない人間にもこの本は面白くて、一気に読み終えてしまったのだが、邱さんがどんなに時間のことに注意を払っている人かがよく分った。
『野心家の時間割』というのは、まさに邱さんが書くのにふさわしいテーマであり、書名である、と心から納得したのである。
実は、邱さんが時間について書いた本は、これがはじめてでないことも、この本で知った。
『金とヒマの研究』という、ご本もあるそうだ。ぜひ読んでみたいものです。
この『金とヒマの研究』を知人に贈る時、本の扉に、邱さんは
「時間がある人はお金がない。お金のある人は時間がない。それでも時間もなければ、お金もない人よりはまし」
とお書きになるそうだ。
たしかに、金も時間も、両方ないのは、この世の不幸だろう。どっちか一つでもあったほうが邱さんの言う通りシアワセだ。
それでは、お金も時間も二つともたっぷりある人は、この世の最高のシアワセ者か。
どっこい、そうじゃない、と邱さんは喝破する。このあたりが、いかにも邱永漢らしくて、人をうなずかせるのです。
一年三百六十五日、しゃかりきになって働いているのは日本人だけ。ヨーロッパの重役は、午前中出社してちょっとデスクに向かえば、午後はゴルフかクリケットだ、とそれがいかにも優雅な暮しであるかのように言う人がいるが、とんでもない心得違いだ、と邱さんは説く。
技術革新の激しい今日、そんなぐうたらなことをしていては会社の経営がうまくいくわけがない。親譲りの財産をたちまちスッてしまうのがオチだ。
お金を持ち、それを十分に活用し、増やそうとする人は、そのために知恵と時間をあらん限り使う。だから時間はいつも不足している。
今日、お金をたくさん持っているのにヒマをもて余すということは生存競争の戦列からはずれてしまったことにほかならないから、しあわせな状態とはいえない。
これが邱理論である。
お金がいっぱいあり、時間がもっとほしい、ほしい、と思っている状態が理想の人生、ということらしい。
有効な時間の使い方、と言うと、ふつうの人は、一時間という時間を二時間、三時間に匹敵するように使うことだと考える。間違いではないだろうが、邱さんの発想は違う。
「(有効な時間の使い方とは)長い時間も短く感ずるような時間の使い方である」
と邱さんはおっしゃる。
では、どうすればそうなれるか。
時間を忘れるほど夢中になれるものを持ちなさい。
自分の好きな仕事を本職にしなさい。
「もし好きな仕事に従事しているなら、恋人といっしょにいるようなものだから時間のたつのはすぐ忘れてしまう。いまでも『気がついたら、もう朝になっていた』といった仕事ぶりの人を時々見かけるが、こういう人は時間の使い方の上手な人であるといっていいだろう」
これが邱さんのアドバイスだ。
こんなふうに紹介していくと、邱永漢という人は、ぎっしりつまったスケジュール表と睨めっこしながら、余裕のないせかせかした毎日を送っているのだろうと思う人もいるかもしれないが、違います。
この本の中にも「道草」論が説かれている。それには、
「間」を知らない奴は間抜けだ!
という見出しもついている。
道草の味を知らないやつはダメだ。
しかし、道草にも程度がある。
どんな道草を、どのように食えばいいか。
くわしくは本文をぜひお読み下さい。
私は呑んべえで一年三百六十五日、アルコールを抜いたことがない。多くはわが家で飲むが、銀座の酒場にも時折出かける。道草である。邱さんも酒場はお嫌いではないらしい。
が、同じ酒場へ道草を食いに行っても、食い方が違うのです。そこが大成功者邱永漢と私との大きな分れ目なのだな、とこの本を読んではじめて気づいた。
私は行きつけの酒場しか行かない。わがままが言えるし、安心だからだ。だが、近頃はママにいやな顔をされることがある。
「ママ、君がはじめて店を出したのは、あれはたしか三十年前だったなァ」
などと懐旧談をするからである。若づくりで、年齢を十歳もサバを読んでいるママとしては、そんな古い話をする客は迷惑なのだ。
「行きつけの店より未知の店へ」というのが邱さんの道草の食い方である。
酒場に限らない。レストランでもパチンコ屋でも、行きつけの店に固定してしまうと、行動半径がきまってしまい、少なくともサービス業の変化からは耳や目をふさがれてしまう。それは、新しい体験や情報から隔絶された状態にほかならず、一事が万事で、そんなことでは人生全体が膠着化してしまいますよ、と邱さんは忠告する。
別荘反対。
職住近接。
これも邱さんの二大哲学であるらしい。本書中にくり返し説かれている。
邱さん自身、二十何年前にコイン・オペのクリーニング屋をつくった時には、万一うまくいかなくて貧乏した時には、親子五人が店の二階に住めるように設計したという。
住む場所と働く場所が離れていなければならないと思うのは、日本人の悪い固定観念だ。自分がやっている店の二階に住むのがいちばんいい職住近接だ、と邱さんは言う。
以上のように、具体的な例をあげて、常識とはちょっと違うように見えながら、本質を見事に言い当てる話がつぎからつぎと出てくる。
あっという間に読み終ってしまう。しかし、あっという間に、というのは感覚の問題であって、実際には一冊の本を読むのだから時計を見ると、それなりの時間はかかっている。それが「あッという間」に感じられるのは、つまり、邱さんが言うところの<長い時間を短く感じる>ことであって、時間を有効に使ったことにほかならない。この本そのものが、時間の使い方の実物見本だと言えるのである。

(エッセイスト)

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