世界中をこんなにとびまわって何が面白いと思われるかもしれないが、世界中の都市で行ったことのない所は、なるべく一ぺんは行ってみたいという気持ちを私は持っている。そのうちに年をとったら、行動ものろくなって、一つ所にとどまる時間が長くなると思うが、まだ足の丈夫な間は独楽のように忙しくまわり続けるのが性に合っているのである。そういう時間をつくろうと思ったら、忙しいスケジュールの中から時間の先取りをするよりほかない。ちょうど生活費に優先して先取りしてはじめて貯金が可能なように、遊びの時間もまた先取特権を発揮するのでなければ、そもそも成り立たないのである。
いつもは一時間もヒマのない生活をしていても、海外旅行をしている間、私は仕事をしない。もちろん、私のような職業は転んでもただで起きないところがあるから、見聞したことをどこかで役立てることはあり得る。
しかし、取材をしようと思って旅行に行くことは少なく、旅行した結果が無意識のうちに取材になっていることの方が多い。私はいつも問題意識を何十も頭の中に詰めて歩いているので、どこかで思わぬ事象にぶつかると、たちまち「あれだ!」と頭の中のコンピュータの方が働いてくれる。過去のことよりも、これから起こるであろうことに気をとられているので、ボンヤリしているヒマがないのである。
さて、ふりかえってみて「時間の使い方」は人に教えられて上手になるよりも、必要に迫られてしぜんに覚えるものだという気がする。しかし、わずかの時間もなくなるほど忙しい思いをするのは、他動的にそうなるものではない。サラリーマンという「時間の切り売り」をしている間は、丸ごと売らずに切り身で売っているから、目がまわるほど忙しいということはあり得ない。本当の忙しさは自分でつくり出すもので、自分でつくり出した仕事に夢中になっているうちに、次から次へと時間が埋めつくされて行くのである。
したがって、手帳をひらいても白いスペースが多く、電話で時間の約束をする時に手帳を見ないですぐ返事のできる間はまだ野心家の仲間入りをしているとはいえない。白いスペースを自分で埋めていくうちに、だんだん時間のあきがなくなってくるのである。そのへんまで来てからもう一度、私の文章を読みなおしていただければ、もっと実感が湧いてくるのではないだろうか。
忙しくなることが第一で、忙しくなればしぜんに時間の使い方が上手になることはまず間違いないであろう。
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