もし資源の有無が一国の富を決定するなら、日本人はここで一巻の終りとなったはずである。ところが、日本人はそういうピンチのなかから再出発をして、国力を回復しただけではなく、円高ドル安によって為替レートが大変動した影響もあるが、一人あたりGNPでアメリカを抜いて、世界一の金持ち国になった。となると、日本人を金持ちにしたのは資源でないことははっきりしている。敗戦直後で何もなかったところから出発しているから、資本力でないことも、等しく認めるところである。まして土地でないことは、山が全体の八五%を占める平地の少ない国としてば、改めて説明するまでもないだろう。
富の源泉が資源でも資本でもなく、土地でもないとすれば、あとは労働しか残っていない。スミスの時代から「労働があらゆる富の源泉である」と指摘されてきたが、それは二十世紀の末期になっても、そのまま通用するらしいことがわかる。
ただし、一口に労働といっても、マルクスが抽象化して考えた労働時間という物差しで測れるような単純なものではない。まず労働といっても、肉体労働もあれば、頭脳労働もある。熟練労働もあれば、不熟練労働もある。またオフィスのなかで机に向ってやれる労働もあれば、デバートの売り子のように食品売り場に立って声をからして客を呼ぶ労働もある。
かと思えば、天気の日は仕事があるが、雨の日は仕事にあぶれる道路人夫もある。船の上でやる労働もあれば、地の底にもぐりこんでやる坑夫のような労働もある。さらには、同じ一時間の作業であっても、受付とか、管理室で何もしないでブラブラしている仕事もあれば、何億ドルの為替の売買に神経を集中している仕事もある。交通渋滞のなかをホーンばかり鳴らしているドライバーの労働もあれば、航空機の操縦をして空を飛ぶパイロットの労働もある。
これらの労働はそれぞれ異質のものであり、単純に時間でその値打ちを算出することはできない。それぞれの労働に対して労働時間あたりという厳密な相場ができあがっているわけではないが、この仕事については大体この程度といった報酬の相場はきめられている。そうした労賃や原料などのコストを支払ったのちに、一つの商品もしくはサービスを提供するために要したこれらの費用を販売価格から差し引いた残りが(マルクス流にいえば)余剰価値である。われわれはこれを付加価値と呼んでいる。一つの商品もしくはサービスを完成したおかげで付随して生み出された価値だからである。付加価値の大きい小さいは、あらかじめ自分たちできめられるものではない。それがお金に代えられて手元に入ってみなければ、はっきりした数字にはならない。しかし、大なり小なりそういう価値をつくり出して、それが社会的な富として定着する。年々、他の国に比して速いスピードで、かつ大きな金額でこの付加価値がふくれあがれば、その国が金持ちの国になることは間違いないのである。
その際、付加価値として創り出される富がどういう比率で、だれに分配されるかは、国によって、また時代によって違う。マルクスの生きていた時代のロンドンでは、労働者の取り分は少なく、労働者は辛うじて糊口をしのぐ程度の賃金しか得られなかった。付加価値のほとんどは資本を提供している親方、すなわち資本家の掌中に帰したのである。労働者を生かしておくために必要なギリギリの賃金だけが労働者の取り分となり、労働が必然に生み出す余剰価値のほとんどは資本家の所有となったので、マルクスはそれは資本家による労働者の搾取と見なしたのである。
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