かつて農業が日本の基幹産業であった時代には、メシのタネを農産物に依存していたから、人間は土地にしばられ、日本国中どんな田舎でも、土地に比例して人口が分布していた。領主は土地からの収穫に対して分け前を要求したので、領主もまた土地にしばられ、参勤交代で、江戸と領地のあいだを代る代る住むように強制された。大地主はそうしたそれぞれの地方に土地を持っていた人たちだし、町人で分限といわれた人たちは、城下町でその地方の産物を大きく扱ったり、その地方の人々を相手に商いをする人たちのことであった。
明治以降、工業が発展しても、工業の盛んな地域は、京浜工業地帯とか、阪神工業地帯とか、あるいは、北九州工業地帯というように、特定地域に限られ、日本国中、平均して分布している人口を相手に商売をするのだから、手工業も流通業もサービス業も平均して全国に分布していた。
ところが、工業の発展が日本のこの国勢地図を大きく変えてしまった。工業は中央集権的なものだから、工場をつくるときはどうしても都会地か、その近くが選ばれる。都会のほうが労働者を集めるのも容易だし、電力をひいたり、生産に必要な原料や部品を調達するのに便利である。電信電話などの通信手段も発達している。また工場には下請けも必要なら、関連企業がすぐそばにある必要もあるから、どうしても一カ所に集結してしまう。
最初のころは、都会地に人が集まってきて工場をつくったが、都会地の地価があがりすぎたり、労働者が不足するようになると、郊外や臨海地域にコンビナートをつくって、特定の地域に人口が集中するようになった。人口が集中すればたちまち新しい都市ができあがる。
農業社会では一町歩の土地で一家族を養うのがやっとだが、工業になると、一町歩の土地に建てられた工場で三〇〇世帯でも四〇〇世帯でも養えるようになる。すると、狭いところにますます人□が集中して、土地もあがるし、そういう人口を対象に商売をやることも可能になる。
一方、農業生産による付加価値は、たとえ政府によってがっちり保護されているとしても、工業がもたらす付加価値には遠く及ばないから、都会地の工場から採用の口がかかると、学佼出たての若者たちは集団就職で都会地に動いてしまう。そのうちに、工場のほうが不足する労働力を求めて地方都市にもつくられるようになったので、農家の人たちも農業を捨てて工場とか、あるいはお役所に務めにいくようになった。そのため過密地帯と過疎地帯がはっきり分れるようになり、専業農家も次第に数が減って、かつて五〇%もあった農家が、三十年もたつと一〇%を割るようになってしまった。
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