模倣も徹底すれば、独創の境地に達する


戦後日本にとって、すべてのモデルはアメリカであった
日本人が「工業の民」であるという事実は、つい四十年前までは自他ともに認められていなかった。昭和二十年、戦争に敗れるまで、日本は農業国であり、人口の半分が農業に従事していた。農業国だったからこそ行き詰り、農民に土地をあたえるために、領土を求めて海外に出なければならなかった。最近よくテレビを賑わす中国残留孤児の経歴を見てもわかるように、新しい農地を求めて満州に集団で移住した開拓民が多かったのである。
敗戦になると、海外に出かけていた日本人は、すべて日本に追い返された。四つの島に押し込まれた九千万人の日本人は、食糧不足と資源不足にあえぎながら、メシのタネを探すよりほかなかった。当然、選択の余地はそんなに多くはなかった。日本人が植民地として支配した地域も、大東亜戦争によって新しく占領下においた中国大睦やフィリピンやインドネシアも、すべて日本より後発の発展途上国にすぎなかった。だから、それらの地域の占領によって体験したことはほとんど日本人の参考にならなかった。
日本を打ち負かした相手は世界一の経済力を持ったアメリカであった。今日のアメリカを見ていると、はたしてアメリカが工業国なのか、それとも農業国なのか、首をかしげたくなるが、日本を打ち負かしたのは紛れもなく物量を誇るアメリカであり、アメリカの工業力そのものであった。しかも敗戦後の日本はそのアメリカの占領下におかれたのである。
日本人は自分より実力の下の者に対してはかなり尊大な態度をとる。反対に自分より明らかに実力のある者に対しては畏敬の念を抱く。敗戦直後の貧乏と、自信喪失のさなかにあった日本人から見れば、占領軍は驚嘆の的であり、尊敬の的でもあった。占領軍の兵士の着ている軍服も、長い編みヒモで結ばれた軍靴も、また彼らを乗せてきたトラックやジープからとびおりてくるピチピチした元気なGIの姿も颯爽として目にまぶしいくらいであった。まして彼らが車の中から運び出してくるチョコレートやチューインガムやプラスチックでできた容器や玩具の類は、天国から持ち込まれてきた素晴らしいプレゼントのように思われた。
占頷下のアメリカ人が日本人に押しつけた憲法や労働法や教育制度にしても、今日でこそ日本人の批判の対象になっているが、あの当時は「天の声」のようにもきこえた。アメリカ軍が日本人に押しつけた選挙制度のおかげで、日本人は総理がどんな人に代ろうとも少しも経済がおかしくならないですむ政治体制ができあがったし、またアメリカ人が戦争中のさばっていた日本の古い指導者や財閥を追っ払ってくれたおかげで、日本人は今日のような富の分配の比較的公平な経済社会を築くことができたのである。
一時期、マッカーサーの一挙一動は日本人にとって神の啓示のようなものであった。マツカーサーがトルーマン大統領に首を切られて本国へ戻るときは、涙ながらに別れを惜しんだ日本人も決して少なくはなかった。その点、日本人は忘れっぽい。日本人は自分たちに都合の悪いことが起ると、すぐに忘れようとする。そして、都合の悪いことはすぐに忘れてしまう。だから、そんなことはなかったと言い張る。
たとえば、戦争が終ってみると、日本人の大半は白分たちが戦争に反対していたようなことを言う。なかには戦争中、日本人は占領地の人に対して、そんなにひどいことはしなかったと言い張る人もある。最初は、少々、うしろめたい気持ちでそういうことを言った人でも、言っているうちに、昔から自分はそう思っていたし、またそういう公正な態度をとってきたのだと信ずるようになる。そのかげにかくれて、都合の悪いことはきれいさっばり忘れてしまうのである。
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