(編集部より:この著作は、季刊誌『Voiceビジネス特集』にて、1988年春季増刊号〜1989年新年増刊号にわたり連載したもので、1988年に単行本として出版、1994年に文庫化されました。また本作はPart1、Part2からなる連作であり、国際日本文化研究センター教授・飯田経夫氏の解説は文庫版Part2からの再録であることを付記いたします。尚、本文中のデータ、肩書き等はすべて単行本刊行当時のままとしました。)

解説  飯田経夫

邱永漢氏の名著『付加価値論』の「解説」を、いささか唐突だし、あるいは著者に対して失礼かもしれないが、マンガの話から始めよう。いまから何年か前、石ノ森章太郎著の『マンガ・日本経済入門』(日本経済新聞社)が、大変なベストセラーになったことがあり、たしか英訳まで出た。私がどこかにその書評めいたものを書き、「評判から想像されるほど面白くないではないか」と感想を述べたところ、日経出版局の担当者(それは私にとって旧知の人だった)から、私のところへ電話がかかってきた。
「どうせあなたの気には入らないでしょうが、じつはこのマンガがよく売れるのは、あなたのような経済学者の先生方の責任なのですよ」というわけである。つまり、経済の激動の結果として、世は経済学を学びたいという二ーズに満ち満ちている。ところが、そういう人たちが、書店で経済学の教科書を買って読むと、むずかしくてさっぱりわからないではないか。
「経済学者たちは、わざわざ経済学に入門しようとこころざす若者たちを、門前で追っ払っている。そういう人たちが曲がりなりにも経済学に入門できたのは、このマンガのおかげなのですよ。経済学者には、感謝してもらいたいくらいのものだ」。
彼の話を聞いて、私は「いわれた!」と思った。事実、経済学者の文章は――たんに経済学者にかぎらず、およそ学者の文章というものは、というべきかもしれないが――、簡単にいえることを、わざわざ持ってまわった難解な表現で述べ、読みづらいことおびただしい。
要するに、彼らは文章が下手であり、読者へのサービス精神に欠ける。
主として自己批判の意味でいっているのだが、かねてから私はこのことを重大な問題だと感じ、数年前まで大学で教えていたころには、自分のゼミナールの学生には、「経済学は別にむずかしいことをいっているのではない。中学生でもわかるような表現で説明できるはずだ。ぜひともそうするように心がけよ」と、繰り返しいうのを口癖としていた。
ところが邱氏のこの本は、一読されればすぐにわかるが、生硬な専門用語はいっさい使わず、理路整然としていて、まことにわかりやすい。しかも、たいへん面白く適切な指摘が随所でなされていて、非常にためになる。出たときにさっそく一続して、けっしてオーバーでなく、「すごい本が出たものだ」と感嘆したことをいまもはっきりと記憶している。『マンガ・日本経済入門』との関連でいえば、経済学入門を志す若者を門前払いする必要は、もはやなくなった。
それこそ「中学生にもわかる」この本を、私がことさら「解説」する必要があろうとは思われないが、いくつかのことを述べておこう。まず、著者がこの本を第二次大戦後の日本経済のサクセス・ストーリーを素材としながら、「経済原論」として執筆した点は注目される。
「『付加価値論』は二十世紀の後半にアジアの東に位置した資源も資本もない貧乏小国日本が世界一の金持ち国になって行くのを目のあたりに見て、その『成功の秘密』を私なりに分析解説する気を起こして書きはじめたものである。Part1では、主として日本が工業に成功した経過にふれたが、Part2では、日本のサービス業、お金の動き、労働資源の開発、そして、日本の役所のはたしてきた役割を取り上げた。過去にこういう切り口で『経済原論』を執筆した人はいないと思うが、これは私の独創というよりは、ヒト、モノ、カネが世界を狭しと動きまわるようになった国際化時代の社会現象、経済現象をとりあげていけば、自然にこうなるということであろう」。(Part2「まえがき」)
このことは、Part1の「まえがき」が、アダム・スミスとカール・マルクスヘの言及から始まっていることからもうかがわれる。スミス、マルクスといえば、経済学史を代表する巨匠であり、十八世紀のスミスと、十九世紀のマルクスとに、二十世紀のジョン・メイナード・ケインズを加えれば、経済学者の「ビッグ・スリー」となるだろう。すなわち、平易な記述のかげに隠れて、あるいは読者は見逃がしがちかもしれないが、著者は、非常に壮大な意気込みのもとにこの本を書いた。しかも、この意気込みは、成功裡に達成されていると私は考える。
著者の素材は、「二十世紀の後半に、台湾生まれの私(著者・邱氏)が偶然東京に居を構え、敗戦後の日本がほとんど無一文に近い状態から、約三十年間で世界でも一、二を争う金持ちの国にのしあがって行くのを目のあたりに観察」した結果である。著者はアカデミズムに属する経済学者ではなく、いわば「街のエコノミスト」だが、いかにも「街のエコノミスト」らしいしたたかで、地に足が着いた鋭い観察眼が、随所に光っている。著者が外国人であり、「普通の日本人のようにその渦中に埋没してしまう立場にはない」(Part1「まえがき」)利点も、なかなかよく活かされている。
当然のことながら、著者はなかなかきびしい。たとえばアカデミズムに対しては、「私が大学で習った経済学によると、富は広大な国土や豊富な資源を持つ国のものであり、日本やNIESの国々のような天然資源に恵まれない国々は貧乏国に分類されていた」(同前)
さらには、アメリカ人の「日本研究」に対しては、「アメリカの経済学者や社会学者のように、日本の事情に精通していない、ほとんど日本語も喋れない人びとが、『象のカラダを撫でながら、象について語る』ような立場でもない」。(同前)このコメントなどは、日本人自身が(たとえば私が)普段から感じていても、なかなかはっきりとはいえないところだろう。この名著が文庫に入って、さらに多くの読者を獲得し、「将来、『日本を研究したいと考える世界中の人々の日本を理解する手引書となれば』」(Part2「まえがき」)という著者の願いがかなえられることは、私にとっても大きな喜びである。

(国際日本文化研究センター教授)

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