中国人と日本人 邱永漢

「違いの分かる人」へのヒントがあります

第35回
中国人に理解できない公益優先の思想(2)

商売その他の関係で中国人と密接に接するようになると、
最初の一年や二年は、
日本人にとって驚きに次ぐ驚きの連続である。
自分らが抱いていた中国人観と
あまりに違う中国人が目の前に現われ、
期待感と信頼感が裏切られて、
中国人のことをボロクソに言うようになる。

そうした悪感清を抑えきれるほど
辛抱強い日本人を見たことがない。
ところが、抵抗の二年間がすぎると、
あれほど激しかった中国人に対する不信感が少しずつ消えはじめる。
嘘をついたり、時間を守らなかった中国人に
あたり散らしていたのが、
時間を守らないのを当たり前と思うようになり、
どうしても早く来てもらいたいときは、
その旨、念を押しておくか、
あらかじめサバを読んで、早い時間の約束をしておく。

そうすると、ちゃんとうまく物事が運ぶから、
「日本人のようにこせこせしても仕方がないなあ。
何も日本人のルールだけが
この世を生きる唯一のルールじゃないなあ」
と自分なりに納得するようになる。

こういうのを日本人は、大陸ボケと呼んでいるが、
ボケてそうなるとばかりは言えない面がある。
台湾在住の外省人作家・柏楊が「醜い中国人」という本の中で、
こういう同化現象を「醤缸文化」、すなわち、
漬物甕文化と名づけている。

ドロドロとした醤の中につかると、
みんな鮮度を失って同じ味の、同じ匂いのものになってしまう。
西洋文化も近代思想も、あるいはいま世界中でもてはやされている
日本の生産技術も中国に入ってくると、
五千年の伝統のある漬物甕の中に漬け込まれて、
似ても似つかぬものになってしまう。

元朝も清朝もみな異民族が侵入して打ち立てた王朝であるが、
中原に政府を樹立すると、
時間の経過とともに中国人の中に同化されてしまった。
そういう長い伝統のあるところだから、
資本主義も共産主義も民主主義も
中国という漬物甕の中に入れられてしまうと、
みな中国味になってしまう。

なぜかというと、長い長い歴史と環境によって
つくられた中国人の国民性があって、その中身を変えるよりも、
その味に染まる可能性のほうがずっと大きいからである。

では今後も中国人の思想や行動原理を変える
試みは成功しないものだろうか。
いつまで中国人は専制的官僚政治に甘んじ、
民主主義とか法治とか公益優先と
縁のない社会を維持するのだろうか。
私は多分、そうではないと楽観している。
同じ中国人の社会であっても、
一足先に経済の発展を軌道に乗せた台湾や香港や
シンガポールの動きが、すでにこのことを証明してくれている。
思想とか行動原理は、環境がもたらすものである。
中国人に比べれば、日本人は昔から
チーム・ワークの良い国民であったが、
それを決定的にしたのは、
戦後の日本で法人優遇の税制が導入されてからであった。

個人で店の経営をしたり、個人で財産を所有しているよりも、
会社で経営したほうが税務上有利ということになれば、
小さな商店も会社に変わる。
会社が儲けたお金も資産として
大半が会社に蓄積されるようになる。
こうしたシステムが確立したからこそ、
日本人は会社を一つのユニットとして
チーム・ワークをもっと強化させることに成功したのである。

いったん会社という組織が普遍化すると、
日本人は会社をトリデとして社会生活を営むようになる。
お金の流れも、交際費の払い方も、文化活動のスポンサーも、
会社中心に変わってしまう。

大半のサラリーマンは会社に忠誠を誓うか、
親分と生死を共にしなければ生活をして行くこともできなくなる。
したがって、人が公益もしくは団体の利益を優先させるか、
それとも利己主義に徹する道を選ぶかは、
社会制度によって左右されると言ってよい。

今までのところ、中国人が利己主義に徹しているのは、
そういう環境と社会制度の下におかれたからであって、
今後もずっとそうだと定められているわけではない。

共産主義に四十年も支配されてきた中国人が利己主義で
資本主義の旗手としてトップに躍り出た日本が
公益優先の国というのは一見、矛盾しているように見える。

しかし、よく考えてみたら、
利己主義の果てが共産主義であり、
共産党をもってしても変えることのできなかったのが、
中国人の利己主義である。

利己主義、自力更生が、
きびしい環境の中を生き残るための知恵である以上、
環境が変わらない限り、
利己主義が改まる可能性はないのである。





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2012年9月11日(火)

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