中国人と日本人 邱永漢

「違いの分かる人」へのヒントがあります

第55回
「不惜身命」と「生命あっての物種」 その3

では中国人なら保身術にたけていて、
身に災難がふりかからないかというと、そんなことはない。
貧乏人はもっと大変だろうが、
地位の高い人や金持ちにも災難は同じようにふりかかってくる。

金持ちは災難がふりかかってもお金を使ってそれを免れようとする。
役人が謀叛の嫌疑をかけられるようものなら、
「累は九族に及ぶ」というように一族郎党皆殺しにされてしまう。
家族中心の社会であるだけに、復讐をおそれて一家ことごとく、
根絶やしにするのが中国人のやり方であった。

そうした乱世を生きてきた中国人は、
立身出世を願う一方で、一歩退いて、
身の安全を図ることに余念がない。
中国人のそうした潜在的な願望を代表したのは、
ほかならぬ老荘の哲学である。

なかでも、荘子は俗人たちの立身出世欲や金銭欲をせせら笑った。
生命そのものの実在さえ疑ってかかった。
ある時、荘子は自分が蝶になってひらひらとんでいる夢を見た。
夢から醒めて、待てよ、
いま自分はさっき蝶の夢を見ていたと思っているが、
ひょっとしたら、蝶が人間になった夢を
いま見ているのではないかと思いなおした。

「荘子蝶を夢む」に始まる『荘子』は、
人の世をよく見透かしたすぐれた現実主義者の厭世の書である。
私は、中国三大思想家、孔子、荘子、韓非子三人のうちで、
荘子がもしかしたら最も頭脳明噺な、
なおかつ最も有能な才人ではなかったかと思っている。

孔子は人生の大半を仕官運動に費やして、
かろうじて魯国の司冠(法務大臣)の職にありついただけだが、
荘子は楚の威王から宰相になるよう要請されて断っている。
断わるに際して、
「あなたはお祭りの時に犠牲にされる牛を見たことがあるでしょう。
刺繍をした衣を牛に着せ、
草や豆をぞんぶんに食べさせます。
しかし、いったん大廟の中に引かれて行って
供物にされる時は、
一疋の子牛にかえりたいと思ってももうできないでしょう」
と言っている。

荘子は世間の人たちの立身出世欲や金持ち志向をこう笑った。
「虎や豹は山の中にあって怖いものなしの生活をしているが、
しかし人間の罠にかかるのは見事な皮を着ているからだ。
あの皮を脱ぎ捨ててしまいたい」
その点、一番気軽に生きられるのは、
社会的地位もなく、お金もなく、
世の中から見放された状態におかれている人たちである。
そのもっとも典型的な例が世間から見放された前科者たちである。

荘子はそうした前科者のことを愛し、
また好んで前科者の幸福について語った。
人間関係を窮屈に規制する道徳や法律を小心翼々として
墨守している普通の人間に比べれば、
前科者はもうこれ以上堕ちる心配がないから安心して生きられる。
少なくとも、世間的なルールに縛られないですんでいる。
そうはいっても、大多数の中国人は前科者でもないし、
貧乏人になりたいと思ってもいない。
依然として打算的な現実主義者で、
どうやったら立身出世ができるか、
またどうやったら金持ちになれるか、
四六時中そのことばかり考えている。
それだけにいつどこで不慮の災難にあわされるかわからない、
という不安にさいなまれている。

だから中国人は一方できわめてきびしい
現実主義者であるにもかかわらず、
同時にほとんどが老荘思想の信奉者でもある。
時に利あらずと思えば、いつでも身を引く用意がある。
そういう時に生活に困らないだけの貯蓄もしている。

「玉を抱いて罪あり」というように、
他人の欲しがる地位や財産を持っておれば、
他人に狙われるが、それを捨ててしまえば、
少なくとも身の安全を守ることはできる。
そういう二面性を持って中国人は生きている。
だから中国人にとって孔子の思想を着ている
キモノの表地にたとえるなら、
荘子の考え方はいわば裏地のようなものである。
儒教を米の飯にたとえるならば、
道教は米からつくられた酒のようなものである。
いずれも表地あっての裏地であり、
また米の飯を食べているからこそ
酒の味わいもひとしおということになるのである。
つまり立身出世を狙う人が多いからこそ、
保身術が必要になるのである。

「不惜身命」を尊しとする武士道からすれば、
自分が責任をとるべきことさえも
下の者に押しつけるのは下のまた下だが、
「生命あっての物種」と思う中国人にとって、
自分に非を認めることなど
想像も及ばないことなのである。





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2012年10月1日(月)

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