“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第140回
料理をしない評論家が料理屋の評価をできるか?

料理屋評論家の条件は何かということを考えると、
全く反対の二つのコンセプトが思い浮かぶ。
一つは、
料理をよくわかっている人間ほど、その料理の評価ができる。
すなわち、プロの料理人が
一番料理屋の評価ができるという考えだ。

もう一つは、料理屋を訪れるのは素人なので、
料理のことは知らずに評価したほうが、
一般のお客を代表する評価になる、というものだ。

自動車メーカーで新技術の研究開発をしているときにも、
同じような疑問を抱いたことがある。
新車や新技術を開発している人間は、
技術への思い入れが強すぎて、
一般消費者がどうのように受け入れるかということを
おろそかにしがちという傾向がある。
一方、技術評価をする役員や評論家は、
その技術に対して専門家であることは少ない。
自分ではとてもいい性能の技術開発が完了したと思っていても、
役員評価やマスコミの試乗会で
けちょんけちょんに言われることがある。

私などは人間ができていないので、言われたその場では、
かしこまって苦言を聞いているふりをしながら、
心のなかでは「こいつは技術をわかっていないのだ」
とつぶやいてしまったりする。
それが、後で冷静になってみると、
指摘がよくわかったりして反省することも多かった。

料理屋の料理も、
どう工夫と努力をしたかということよりも、
味がどうだったかということが最終的には重要だ。
従って、一般消費者がどう感じるかということを疎かにして、
食材とか料理の過程だけを重要視すると、
コストだけどんどん高くなり、
食べてみてそれだけの価値がない料理になることもよくある。

それでは、素人に近い知識、経験だけで
料理の評論ができるかというと、これまた、違う。
素人の目で料理を見ることは必要だが、
素材や調理技法などの知識、経験は
できるだけあったほうが正しく料理を評価できる。
これは、評論家はそれぞれの料理を評価するうえで、
味をどう感じるかというモデルを頭のなかに作るが、
そのモデルの構造の違いに現れる。

やたら何軒もレストランを食べ歩きをして、
味覚を磨くという体験型のモデルをもとにすると、
その味がどこから来ているかという本質を見失うことが多い。
正しい評論には素材、調理法なども理解して、
味の原理を捉えた構造的なモデルをもとに評価するほうが、
客観的な評価ができる。

例えば、素人の料理屋評価を載せている
ウェッブなどがよくあるが、
蕎麦屋の評価でいえば
単なる食べ歩きしかしていない人の評価より、
自分で蕎麦打ちをしている人の評価のほうが
信用できる場合が多い。
料理評論には、素材、調理の知識、経験を深める努力を怠らずに、
しかも、素人の目で味を評価する
というバランスが必要と思われる。


←前回記事へ 2005年2月25日(金) 次回記事へ→
過去記事へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ