“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第407回
江戸前料理の誤解 〜その1

たまたま、時代劇のドラマなどを見ていると、
江戸の食文化の歴史からみて、
疑問を感じる料理が映っていることが多い。

話題を呼んだ「大奥」で
刺身を醤油につけて食べるという会話があったが、
元禄の頃は醤油はまだ普及していなかった。
将軍家だから、特別に醤油を使った可能性も否定はできないが、
煎酒(いりざけ)や生姜酢、芥子酢を使うことが一般的であり、
醤油が普及したのはもっと後の時代だ。
刺身は、もともとは膾(なます)と同義語で、
「生」と「酢」が語源。
生の魚に酢を用いることが通常だったわけだ。
現在では、膾は細かく切ったもので、
刺身は大きく切ったもののことをいうが
「本朝食鑑」には逆の解説も載っている。

さて、いわゆる「江戸前料理」が完成したのは
文化・文政以降、
つまり1800年代のはじめから中ごろのこと。
江戸の初期から中期は、江戸が発展していた時代で、
外食できる料理屋はあまりなかった。
ただし、蕎麦は結構早くから麺の状態にはなっていたようだ。
蕎麦切りは長野県のお寺で発見された文献から、
江戸時代以前から現在の麺のようにして、
ふるまわれていたことが明らかになっている。
しかし、江戸の初期から中期までは
蒸して食べることが普通であった。
それも、味噌ダレを使っていて、
現在の醤油で返しをとって
鰹出汁で割った汁につけて食べるようになったのは、
江戸後期のようだ。
この味噌ダレの習慣が
「蕎麦味噌」という蕎麦屋酒の定番の酒肴を産んだわけだ。

鮨、天麩羅、鰻の蒲焼などの料理法が確立して、
屋台店として出現してきたのも、1800年代らしい。
「江戸前」という言葉は、もともとは鰻料理が使い、
それが鮨や天麩羅にも波及したもの。
美味しい鰻は「江戸前」に限るといい、
地方から取り寄せたものは「旅鰻」といい、
味が劣っていたといわれている。
江戸前鰻は、深川や神田川のほとりが最上とされていたようだが、
いまでは、とても鰻がとれるようなところではなくなったのが
残念だ。


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2006年3月21日(火)

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