死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




第28回
年寄りが尊重される社会

むろん、年配者が尊敬される傾向は、
洋の東西を問わず、昔からある。
アダム・スミスも『国富論』の中で尊敬される条件として、
(1)美しいこと、(2)強いこと、(3)年をとっていること、
(4)家柄のよいこと、の四つをあげている。
年寄りはどこの社会でも、
若者より社会的に鄭重な扱いを受けている。

日本でも、中国でも、その点は共通しており、
「今時の若い者は」といった訓戒を垂れるたびに、
老人たちは自分らの若い時分の苦労ぶりを引き合いに出す。
一般に日本人は外国や外国人の生き方や制度を理想化して、
自国の現状を批判する。
同じように中国人は、尭とか、舜とか、あるいは周公とか、
昔生きていた人物を引き合いに出して、
いまの人間が如何になっていないかをあげつらう。
老人支配の社会秩序が長く定着してきたので、
年寄りの言い分が罷り通る傾向は中国のほうが強いのである。

しかし、老人支配が成り立つためには、
いくつかの前提が必要である。
まず第一に年寄りの数が少ないことであろう。
古稀という表現が示しているように、
七十歳まで生きる人すら少なかった社会では、
七十歳をすぎてなおカクシャクとしていた人びとの意見は
当然尊重された。
昔起こったことを覚えていて、
それが生活の知恵として人びとの参考になったのである。

第二に、世の中にあまり激しい変化がなく、
過去の体験がそのまま役に立つ環境におかれている場合であろう。
農業社会が続いていた間は、
生産から消費まで何百年にもわたって毎年、
同じことがくりかえされた。
天候の変化が作物にどういう影響をあたえるか、
飢饉になったら米屋がどういう目にあわされる、
といったことは、そういうことがもう一度起こった時に、
然るべき対策を打つための役に立つ。
だから、「わたしの若い時には、こういうことがあったよ」
という昔語りには皆が一応、耳を傾けてくれたのである。

第三に、年をとるといっても、
ボケないていどの年のとり方である必要がある。
たとえば平均寿命が五十歳か六十歳の時の七十歳、
八十歳は故老の仲間に入るだろう。
そういった故老の中で、頭脳の明噺な人でなければ、
その言動は重んじられない。
皆が同じように年をとり、
同じような体験をした人がゴロゴロしているようになれば、
そんな人たちの体験は何の役にも立たない。
ましてや世の中の変化が激しく、
過去に起こったことのない新しい現象が次々と起こってくると、
過去の体験は役に立たないどころか、
かえって邪魔になってくる。





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2015年1月23日(金)

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