死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




第76回
行動半径が狭くなる

昔の日本の文士は、我が家と雑誌社と
おでん屋の三角線上を動くだけだといわれていた。
家にいて原稿を書く。
書いた原稿を持って雑誌社に届けに行く。
その足で行きつけのおでん屋によって一杯機嫌になって我が家に戻ってくる。

住んでいる世界が狭いから、
自分の家の庭の柿の木が今年は実が少ないとか、鳥が来て食べてしまったとか、
でなければ、仲間うちの小説家の誰それがどういったとか、
奥さんを酒場に働きに行かせたところ、
若い男ができて駈け落ちをしたとか、
身辺の出来事で「根も葉もある」つくり話をでっちあげる。

それでも原稿の売れている間はよいが、
原稿も売れない上に雑誌社も前借りに応じてくれなくなると、
いよいよメシの食いあげだから、
どこかにアルバイトに行かなければならなくなる。
といってもほかにツテがないから、
「食えなくなったら、おでん屋の屋台でもひくか」
というのが文士たちのロ癖であった。
今の言葉でいえば、「ラーメン屋でもやるか」とでもいったくらいだろうか。

食いつめたら、何をやるかは時代によって違う。
おでん屋もそのーつだったが、ニコヨンとか、立ちんぼとか、いうのもあった。
今は経済が発展し、失業の心配がまったくなくなったので、
食いつめるという実感がなくなってしまった。
その代わりラーメン屋をひらくのも容易でなくなった。
不動産が値上がりして、保証金も家賃も高くなり、
少女くらいのお金で店はもてない。
では屋台にしようかといっても、今の屋台はトラックか、
バンにそれ相当の設備を施さなければならないから、
おいそれと簡単にはできない。
その上、お客の口が奢って、まずいラーメンでは口もつけてくれないから、
料理人としての腕もあるていどは磨かなければならない。

こういう時代になると、さすがに貧乏文士というのもいなくなった。
仕事がいつも一握りの流行作家のもとに集中する点では昔も今も変わらないが、
本が売れるようになると、物書きの実入りも
見違えるようによくなり、
小説家の三角線上の一角はおでん屋から銀座の高級バーやクラブに昇格した。
会社の社長や重役は社用で出入りするが、
流行作家の収入は大社長のそれに負けないから、
流行作家は自分の財布の中からそのお金を払う。
そういう意味では作家の社会的地位もかなりあがったが、
その行動半径はおでん屋が高級クラブにかわっただけで
大して拡がったわけではない。
運転手つきの自家用車に乗って行くとか、
ハイヤーを待たせておくとか、
戦前には想像もできなかったことが可能になった。
いくら自動車に乗っても、自動車の走るコースがきまっておれば、
車窓から見える風景はいつも同じだから、
視野がだんだん狭くなって、世間の人々の関心事とズレが生じてくる。
すると、書くものが読まれなくなって、
世間から忘れられてしまう。
お金があっても、なくても、同じ軌道に縛られていては、
体験することも限られてしまうし、
発想も自由奔放というわけにはいかなくなってしまう。





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2015年5月15日(金)

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