死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




解説 その2
大宅映子

この頃の「日本天国論」を読んだわが父は、
口をきわめて褒めたそうだ。
そして曰く「僕は人の悪口を言うのが専門だから、
たまに褒めると笑われるが、
邱さんは独特の切り口を持っているから
激しい日本のジャーナリズムの競争の中を生きぬいていけます。
絶対メシの食いっぱぐれはない。僕が保証します」。
食いっぱぐれどころか、
食べ物から株へと守備範囲を広げ、金儲けの神様になってしまった。

一九八〇年には日本国籍を取得して
参院全国区に出馬した。
結果は落選。
そのおかげですさまじい程の著作活動となったわけだが、
もし当選して政治家になっていたら、
日本の政治も少しはまともになっていたかもしれない。
そうこうするうちに、
一度は追われた台湾から請われて経済発展に力を貸す。
邱団地と呼ばれる工業団地では、
冷凍工場から時計の文字盤工場まで何でもやる、
と聞かされて、そのどん欲さに驚いたものである。
実業は台湾だけにとどまらず、
香港、そして中国大陸にまで伸び、個人としては、
どの香港の華僑より大規模な事業をしている、といわれる。

成都、北京、上海、天津と、
得意なマンション建設から合弁事業へと手を広げている。
この中国進出も、邱さんが香港へ居を移した一九九二年以降のことだから、
その実行力には感服する。
なぜ香港か、というと、日本のマスコミが
一九九七年の香港の中国返還で、香港の人は
カナダなどへ逃げ出している、香港の未来はない、
という論調の頃、天安門事件の以前から、
邱さんは、中国が香港化する、と主張し続けていた。

そして、一九九一年九月エズラー・ボーゲル教授の
広東省の自由化のレポートを読み、天津へ飛び、
自分の目で寒村が大都会になったのを見て、
自説の正しさを確信。
そこからが邱さんのすごい所なのだが、
自説の通り平均寿命プラス二十一世紀を一日でも覗いてから死にたい、
という期限まであと十年しかない。
このままマンネリで日本でぬくぬくの人生をやっては駄目だ。
もう一度はじめからやり直そう、と香港移住を決意、即実行。
中国がどんどん発展すると、香港はその中継地となる、という判断からだ。

元気に死にたい、私も同感である。
多くの日本人もそうは思っている。
しかし実際の行動は、というと、細々とでもいいから長生きしたい、
というような受身な、安定優先の生き方をしている人がほとんどである。

その3へ続く





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2015年7月20日(月)

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