死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第4回
まだまだお金の知識が貧弱な現代人

もともと、戦後の日本社会を見てきても、
いまほどお金に対する関心が強い時代はなかった。
常識的に考えれば、
貧乏のときのほうがお金の必要度が高いから、
「お金、お金」と言いそうなものであるが、
よく考えてみると貧乏人は最初から諦めているのか、
あまりお金の話をしない。

むしろ、お金にあらぬ敵愾心を燃やして、
「お金の話をするのは下品な根性だ」と見下したりする。

新聞記者、雑誌記者、文士、
文芸評論家にそういう気風の人が多く、
私が小説を書くかたわら、
株式投資や金儲けの文章を書き始めたころ、
「あいつに直木賞をやったのは問違いだった。
邱永漢クンのようにならないように」と、
あとから直木賞を受けた後輩たちに教訓を垂れた大先輩もいる。

私に言わせると、
人びとが関心を持つことはすべて文章書きのテーマである。
男女関係とか、恋愛とか、
セックスの葛藤は小説家の格好の「飯のタネ」であるが、
金銭関係や商魂や強欲、節約の精神だって、
それに負けないくらい読者の心をとらえるものであろう。

小説という形式をとるかどうかは別として、
セックスに対する私小説があるなら、
お金に対する私小説があってもおかしくないし、
またそれをエッセイとか、
論文といった形式で表現することも許されてしかるべきであろう。

そう思って、私は株式投資からスタートをし、
やがて不動産投資、企業経営、借金の仕方、
節税、女性の実業界進出など
多方面にわたって執筆をするようになった。

私の書くものにはハウツーものとしての実益性もあるが、
人生の幸福とか、経済現象を貫く人間心理とか、
人の心とのかかわりあいを扱った部分もたくさんある。

ことに、日本経済が成熟化社会へ突入して以来、
意識的にこうした分野に力を入れてきた。

そのせいかどうか、
私の著書の多くがベストセラーの仲間にはいり、
「洛陽の紙価」を高めるほどではなかったかもしれないが、
少なくとも出版社の担当者たちの
自信を深める結果にはなったようだ。

「同じ柳の木の下にドジョウは何匹もいる」とばかりに、
今回もまた何匹目かのドジョウを狙っているようだが、
うまくドジョウをすくえるかどうかは、
実際にざるを柳の下にくぐらせてみるまではわからない。

ただ、「下品な根性」と見なされたお金の話が、
これだけもてはやされるようになったところを見ると、
「下品な」のは私だけではなくて、
日本国民の大半が「下品な」方向に向かって
動いてきた証拠にはなろう。

貧乏なあいだは、お金に関心を示さなかった日本人も、
「豊かな社会」に安住するようになると、
しだいにお金の重要性を認識するようになったし、
もしかして、自分もうまく
お金を運用していけるのではないかと考えるようになった。

食うや食わずのあいだは、収入があっても「手から口へ」
「右から左へ」と消えてなくなり、
貯蓄も容易ではなかった。

しかし、住宅ローンを利用して家を買ったり、
一世帯当りの平均貯蓄が毎年ふえつづけるようになると、
どういう具合にお金を動かしたら、
財産をふやしたり、家計を安定させることができるかが、
当面、切実な問題になってきた。
いくらかでもお金を握ってみると、
お金に対する知識のあまりにも貧弱なのに驚き、
急に勉強する気にもなってきたのである。





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2013年4月5日(金)

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