中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第一章 自由の虜(2)

その1

老李の部屋はバラックの中の幅の狭い、
急な階段を登った屋根裏にある。
壁が隣家に接続しているので、
天井にある明りとりのガラス窓以外に窓がない。
カンバス・ベッド二つ置けるだけの空間というのは
約一坪ばかりだが、
そこへ古い木製のベッドを置いてあるため、
それだけで部屋じゅうがいっぱいである。
シャツや上着の類は壁に掛け、
炊事道具やその他いろいろのがらくたは、
すべてベッドの下に押し込むようになっている。

この部屋に連れて帰られた春木は、
その夜、老李と枕を並べて横になったが、
なかなか寝つかれなかった。
五月の香港はすでに蒸し暑いが、
天井から洩れる月光以外、
外界と遮断された部屋の中は空気さえ微動もしない。
老李は間もなく寝入ってしまったが、
その断続的な寝息を聞くとますます頭が冴えてくる。
そればかりでない。
隣室の男が寝返りを打つ音さえ
手に取るように耳に入ってくるのである。
自分はやはり捕えられてしまったのではないか。
逃げて逃げて、逃げまくったつもりが、
結局、根負けして、
そのまま牢獄へとび込んでしまったのではないか。
きっとそうであるに違いない。
これが牢獄でなくてなんであろうか。
とんだ、とりかえしのつかないことをしてしまったものだ。

台湾で、おとなしく縄にかかっておれば、
火焼島に島流しになって、
十年間ぐらい芋を作っておればすんだかもしれない。
そうすれば、十年間青春を浪費するだけですんだのだ。
現に自分と一緒に秘密結社を組織していたものの中には
九年の刑の者もあれば七年の刑の者もある。
ところが、それを拒否して香港まで高飛びしてきた自分は、
この格子のない牢獄で
いつ果てるとも知れない流浪を続けなければならないのだ。

このことは春木が夢想だにしなかった結末だった。
これまでの生活では、彼は不自由や貧乏や、
苦痛には慣れている。
植民地生まれの彼は
自分の医師と無関係な道ばかり歩かされてきた。

台南の海岸にある半漁半農の村に育った彼は、
公学校を卒業すると、すぐ嘉義の農林学校へ入れられた。
そこを卒業した時はすでに大東亜戦争の最中であり、
徴用同様の形である拓殖会社の雇員として、
フィリピンのネグロス島に派遣された。

レイテ作戦が始まると彼は日本軍や居留民たちと山中に籠り、
木の皮やとかげを食べて飢えをしのいだ。
それから米軍に投降して六カ月に及ぶ捕虜生活、
戦争が終わって台湾へ送還されてからは、
またもとの拓殖会社へ奉職したが、
大陸から来た国民党の接収委員が
自分らの引き連れてきた一族郎党を入れる必要から
間もなく辞令一本で首になった。
そこで首になった者の中で、
大学を出た男が中心になって反政府の結社を作ったが、
左翼的なものとも右翼的なものともつかぬ得体のしれない団体で、
簡単にいえば不平分子の集まりだった。
それが露見して多くの者が捕えられたが、
うまく地にもぐった者も何人かいる。
春木もその一人であるが、
これまでの生活のどの一齣をとっても
決して楽しい思い出はない。

にもかかわらず彼はよくそれに耐えてきた。
どうして耐えることができたかというと、
それは、これらのいずれにも期限がついていたからである。
期限付きの苦悩は
その期限の切れ目がやがて来ることを約束されている。
たとえそれが十年だろうとも、一日一日が積み重なって、
やがて十年が消え去ってしまうのだ。
ところが、今度の場合は期限のない服役のようなものである。
少なくとも春木にはそう思われる。

青春とはこういうものだろうか。
いや、もともと自分には青春などなかったのではないか。
そう思えば思うだけ
青春は彼にとってかけがえのない大切なもののように思われる。
「青春」という言葉を聞いただけでも、妙に胸が高鳴る。
そのくせ、いままで彼は恋の真似事さえ経験したことがなく、
女との関係はひどく動物的か、もしくはすこぶる事務的だった。
つまり青春というものは星が地球の夜空に輝くごとく、
疑いもなく存在するものであるが、
それと全く同様に、手の届かない所に輝いているのである。

それでいて、その星が「いつの夜」にか突然、
自分の口の中へ飛び込んでくるに違いないと
夢想しつづけているのである。
その「いつの夜」は彼によれば、
期限のある苦痛が終わったその瞬間でなければならなかった。
だから、もし苦痛に果てしがないとすれば、
青春は永遠にやってこないことになる。

彼は宣告も判決もない、
この道を選んだことを後悔しはじめた。
傍の老李は前後不覚に寝入っている。
この神経だけでもたいしたものだ。
やがて、年季が入れば、自分もそうなるだろうか。
未来の自分の姿をそこに見ているような気がして、
春木は泣くに泣けなかった。

それでいて、うつらうつらしはじめると、
国民党の憲兵に追いまくられている夢を見た。
舞台はいつの間にかネグロス島へ移り、
逃げ場を失って椰子の木を懸命によじ登りはじめた。
青い空から強い熱帯の光線が落ちてきて、目が眩んだ。
その瞬間に、大編隊の爆音が関こえ、
地上の高射砲陣も火を吐いた。

「あっ」
と叫びながら椰子の頂上から転落して夢から覚めた彼は、
「あーあ」と思わず安堵の胸を撫で下ろした。

まだ夜は明けていなかったが、
家の前の路地を車や人の通る音が聞こえてくる。
すぐ近くに工場があるとみえて、
機械を動かす単調な響きがしている。
波止場へ仕事を探しに行く男たちや
織物工場へ出勤するに違いない女たちで、
貧乏人の街は金持の街より
夜が早く明ける仕掛けになっているのだ。

春木は起き上がって、
じっと採光窓の白んでいくのを眺めていた。

「なんだ、もう目が覚めたのか」
声のするほうをふりむくと、
老李がふてくされた細い眼をあけていた。

「まだ早いから、もう一度寝なおしたほうがいいぜ」
「うむ」と彼が答えると、
「昨夜はあまり寝られなかったようだな。
しかし、心配することはないさ。
そのうちに寝ても寝ても寝たりんぐらい、
寝られるようになるからね」
それには答えないで、戸を開けると、
春木は狭い階段を下りて、バラックの表口へ出た。
すぐ背中合せに、同じような形のバラックが建っており、
その間が細い路地になっている。
路地の向こうから一人の若い男が
天秤棒で水を担いで入ってくるのに出会った。





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2012年6月23日(土)

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