中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第二章 密輸船(2)

その1

もうそろそろ秋風が吹きはじめていた。

ある夕方、水汲みに行く途中で大鵬は「痛いっ!」と
春木が叫ぶくらい激しい勢いで、その肩を叩いた。
ふりむくと、満面にこぼれるような微笑をたたえている。

「洪添財の奴がね、二、三日うちに香港へ着くそうだ」
これまでほとんど毎日のように大鵬は彼の親友の噂話をした。
それによると、添財は大学の教育を受けたインテリで、
やはり政治的な理由から香港へ流れて来たらしい。
一時、生活に困ってこのバラックで、
大鵬と肩を並べて水汲みをやったことがあるが、
敏腕家だからすぐ日本にいる友人とわたりをつけて、
貧乏人の「眼」の届かないところまで浮かび上がってしまった。
しかし、水汲みをしていた洪はその当時、
まだ流れ込んできたばかりの大鵬から金を借りたこともあり、
そのことをいつまでも徳としていた、と大鵬は言う。
香港に帰っている間は、大鵬が訪ねて行っても、
いつも愛想よく迎えてくれ、腹いっぱいご馳走もしてくれる。
そのうちに人手が要るようになったら
手伝わせてやるとも言っているそうである。

もっともこの男はこのバラックでは誰にも評判が悪い。
ことに老李は「あんな野郎があてになるものか。
苦しまぎれに一言ったことを大鵬があてにしているんだから、
つける薬がないよ」とまで極言している。
金持になった男で、
この家の貧乏人によくいわれている者は一人もいない。
ことに老李は借金の申込みに行って体よく断わられたのだから、
恨みは骨髄に徹している。
どんなに悪くいわれても、
それがあの男の真価に響くものではない、と春木は思っている。
大鵬の話だから、どこまであてになるかはわからないが、
しかし、インテリらしいことと、政治亡命らしいことが、
妙に印象にのこって、
春木は毎日毎日その話を聞かされているうちに、
いつとはなしにその男へ期待をかけるようになっていた。

船が着くというその二、三日の間、
春木はじっとしていられないような焦燥を感じた。
彼は一日じゅう丘の上にあがって、港に入ってくる汽船を眺めた。
イギリス船、フランス船、オランダ船、デンマーク船、
スウェーデン船、色さまざまの国旗を翻した汽船が入ってくる。
だが、いったいその中のどの船に、
あの男が乗っているのかわからない。
正式の旅券を持って正式に切符を買って乗るのではないから、
本人が到着するまではどの船だか見当もつかない。
大鵬の話によると、一回闇船に乗るためには
千ドル払わねばならないそうである。
それだけの巨額を費やしてもなお採算がとれるとすれば、
密輸とはどんなに儲かるものだろうか。
もし、その仲間に入れてもらえれば、どんなにいいだろうか。

大鵬は大鵬で、毎日、根気よく電話をかけて連絡をしていた。
対岸の香港島に、あの男のかくし女が住んでいる。
そこへ電話をかけるのだが、
三日過ぎてもまだ着いていないという返事である。
とうとう二人とも待ちきれなくなった。
四日目の朝に、水汲みをすませると、
二人は大奮発をしてバスに乗り込んだ。

油麻地碼頭(ユマテイマートウ)は
海を渡って通勤する勤人や学生で混雑している。
ここの渡し船は、トラックや乗用車をそのまま載せるので、
広場には貨物を満載したトラックが列をなして止まっている。
船が着いて、桟橋が降ろされると、
鯨が口から湖水を吐き出すように、
次から次へと自動車が巨体の中からとび出してくる。
みるみるうちに鯨の腹がへっちゃべっていくような感じである。
乗客も自動車もすっかり吐き尽くしてしまうと、
鯨は大きな息をついて再び潮水を吸い込む。
広場に止まっていた自動車は雑魚のように一台残らず、
腹の中へ消えてしまい、鯨は満足気に捻り声をあげながら、
ゆっくりと岸壁を離れる。

渡し船が海の真中まで来たとき、
ちょうど一隻の黒い煙突の汽船が入港してくるのに出会った。
ブーと汽笛で合図をしながら渡し船が徐行をはじめると、
その前を黒い汽船が波を蹴って横切る。
一万噸ぐらいはありそうな貨物船で、
船員が甲板の上からぼんやりと港の風景を眺めていた。

「あ、この船はたしか神戸から来たんだ」
と大鵬が叫んだ。
「じゃこの船に乗っているかもしれんな」
「そうだよ。きっとそうだよ。
この船以外に、ここ二、三日に日本から来る船はないもの」

二人の眼は黒い汽船のあとを追った。
渡し船が向う岸に着いても、汽船はゆるりゆるりと海上を進み、
西環(サイワン)のほうへ動いていく。
海岸沿いに大小新旧さまざまの船が停泊しており、
船の揺れ動く隙聞から覗くと、
藁や果物の皮や新聞紙が油と一緒に浮かんでいる。
波止場に横付けになったサンパンから
苦力が大きな籠を担いで出て来る。
籠の中には何十羽となく鶏が入っており、
籠が揺れるたびにケケケ……と弱々しげな声を立てた。





←前回記事へ

2012年6月30日(土)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ