中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第二章 密輸船(2)

その2

洪添財の香港の家は干諾道西(カンノトウサイ)という所にあった。
そこは海産物屋や塩魚屋の並んだ街で、
塩魚の醗酵した一種何とも形容し難い臭味が漂っていた。
というよりこの街ができてからこのかた
ずっと続いている老舗が多いから、
匂いはすっかり壁にまでしみついている。
鼻をつまんでも、呼吸をとめても駄目である。
大金をつかんだ男にしては予想を裏切る穢(きたな)い街に女をおいたものだが、
しかし、それでもいまの春木が住んでいるバラックよりは
数等上の住居には違いない。

「この二階だよ」
と言われた三層楼の階下はやはり塩魚屋だった。
二階へ上がる階段は裏口についているので、横町へまわると、
魚でも洗うらしい生臭い水桶が石段の上り口のすぐ脇に置いてある。
大鵬の後からついて登ると、ベンキの剥げた戸口にぶっつかった。
門鈴をならすと覗き窓が細くあいた。

「誰呀?(ピンワイ)」
女の声である。

「洪先生、まだ帰りませんか?」と大騰が聞くと、
「あら、周さん。
ちょうどさっき船が着いたところなのよ」
と言って扉が開いた。
二十三、四の若い広東人の女で、
パーマネントをかけた髪の寝乱れたのがかえって色っぽかった。

「船から降ろす荷物があるとかで、
まだ家には戻らないけれど、しばらくお待ちになります?」
「いや、船に行ってみます。船務行はどこです。建隆ですか?」
「ええ、あすこへいらっしゃればわかるわ」
「じゃまたあとで来ますから」
中には入らないで、二人はそのまま階段を下りて外へ出た。

「凄い美人じゃないか」
電車通りを歩きながら、春木が言った。
「うん。ダンスホールで拾った女だよ」
「それにしてもさ」
「なあに、金の力だよ」
「しかし、君にはばかに好意をもっているみたいだね」
「そんなことはないだろう」と照れながらも大鵬は嬉しそうだった。
「でも僕なんか駄目だよ。金がないもの」
「金がなくたって美男子は得だよ。
旦那のいない間が長いだろう、あの女は友達を欲しがっているぜ。
きっとうまくゆくぜ」
「でもそんなことしちゃ、彼奴に合わせる顔がないからなあ」
当惑しながらも、大鵬はまんざらでもなさそうだ。
「だからこっそりやるんだ。
君はいつもチャンスはどこから来るかわからんと言っているじゃないか。
こんなチャンスを逃がす莫迦もないだろう。
僕に君ほどの面があったら、絶対取り逃がさないね」
いつの間にか、春木は老李のような口をきいていた。
そういう冗談をいう相手としては大鵬は面白い男だ。
すぐなんでも本気にしてしまうのである。

はたして彼は少し考え込んだ。
うつむきかげんで道を歩きながら、もう少しで自動車にぶつかりそうになった。
「テウナアマア!(この野郎)」
と運転手に怒鳴りつけられると、恐縮して首すじまで真赤にした。

建隆行は海岸通りにあった。
昼夜分かたず黄色い電灯のついた暗い木の階段を上がった三階である。
船荷の積み降ろしが表看板であるが、
香港へ集まって来る各地の水客〈船で商売に来る人)のために
木賃宿のような仕事も兼業している。
しかし本職は闇貨物や闇乗船者を取り扱う仕事で、
もちろんその方面の収入が一番大きい。
洪添財はちょうど広の広間で、茶をのんでいるところだった。

大鵬の噂話から背の高い、神経質な男を想像していたが、
実際に会ってみると、ずんぐりと小肥りした醜い男である。
どこにもインテリのもつ“ためらい”や、
相手の気持になって考えようとする親切気がみえない。

「これからまた船に行かなくちゃならんのだがね」
大鵬の顔を見ると困ったような表情をした。

「一緒に行ってもいいぜ」と大鵬が言うと、
「そうか。じゃ行こう」
と言いざま階段を駆けるように下り出した。
庖のすぐ前にはポンポン蒸気船が待っている。
彼らが乗り込むと、船は景気のいい音を立てながら、
海の真中にとまっている黒い汽船さして走り出した。

「日本はもう寒いだろう」
「ああ、寒い」
「今度はしばらくこちらにいるのか?」
「いや、すぐ行く」
「すぐっていつだ?」
「なるべく早く」と添財は答えた。
「いまが時期なんだ。だから明日船があれば、明日にでも行くよ」
「そりゃ奥さんが可哀そうだ」
と春木が脇から口を出すと、
彼ははじめて春木の存在に気づいたかのように、
「なあに。人生いたる所青山ありさ。ウァハハハ……」
とゆさぶるような笑い方をした。

甲板に上がると、船員たちを総動員して、
船室にかくしてあった荷物を、小船に降ろしはじめた。
船員たちが脇目もふらずに働いたので、
荷物はまたたく間に片づいてしまった。
「金のためとなると、中国人はこのとおり勤勉な国民だ。
この調子で国のために働く気を起こせば凄いんだがな。
内戦の起こる余地なんぞないよ。ハハハ……」

船員として潜り込んできたのだから、
それにふさわしい粗末な服装をしているが、
彼はどの船員よりも威風堂々と見える。
水手頭でさえ彼にはペコペコしている。
この男が一年ほど前には
大鵬と肩を並べて水を汲んでいたとはとても思えない。
人生、そう悲観したものでもない、と大鵬がいうのも無理はない。
しかし、大鵬は大事なことを見逃している。
自分と一緒に水を汲んでいた男が出世したのだから、
自分も出世しないはずはないという論理が成り立つだろうか。
春木はなんとなく悲哀を覚えた。
襟首をかすめる風があまり冷たいので思わず大きなくしゃみをした。
クレンチをあげたり降ろしたりする
けたたましい音が妙に胸にこたえた。

その夜、添財が二人にご馳走すると言った。
しかし、一流の餐室やキャバレーへ行くには
二人の服装はあまりに貧弱だった。
「おい、俺の古い服を出せ」
と添財は夫人に言った。
「あんたの服着られやしないわよ。
二人とも背が高くて、スマートじゃないの」
「いいから出せ」
出された服を着てみると、なるほど丈も低いし、胸もだぶだぶだ。
一見して借物だとわかってしまう。
しかし、着て着られないことはないし、
なんといっても木綿の服よりはましである。
ことに白いワイシャツを着て、ネクタイをすると、
大鵬は見違えるほど色男になった。
襟元のあたりに、春木も驚くほどの魅力が出てくる。

「ちょっとこれからまわる所があるんだが、一緒に行ってもいいだろう」
自動車に乗り込むと、添財が言った。
タクシーはネオンの輝く皇后道中(クインスロード)を通ると、
香港上海銀行の裏手から山を登りはじめた。
右手に聖ジョン・キャセドラルの建物、それから緑に覆われたヴィクトリア公園、
これらの閑静な地域を過ぎると、
車は左に折れて、マクドナルド・ロードへ入った。
富豪たちの住む大邸宅街である。
どの家も土地の狭い香港には珍しい広大な敷地で固まれており、
門前の車庫には、高級車がとまっている。

「ここでいい。しばらくそのまま待っていてくれんか」
タクシーを降りると、添財は運転手に言った。

暗闇の中を見上げると、ほとんど完成し上がった新築の
堂々たる三階建の建物が、自の前に聳えていた。

「うむ、だいぶ、でき上がったな」
そう呟きながら、添財はまだペンキを塗っていない鉄の扉をあけて
中へ入って行った。





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2012年6月30日(土)

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