至福の一皿を求めて おいしさの裏側にある話

第77回
日本人がシェフになる、その高い壁

本書で紹介した日本人コック
青木善行さんは、2003年8月現在
12月にイタリア・フィレンツェで
オープンするリストランテ『ロッシーニ』の
シェフに就任することが決まっていました。

彼は
1992年から10年以上、イタリアで修業しています。
1993年からの9年間をピエモンテ州トリノの一つ星
リストランテ『バルボ』で過ごし、
そのうちの5年間はセカンドとして
経験を積んできました。

高齢のシェフは
その日のメニューを書くのが主な仕事だったようなので
青木さんもまた「実質的なシェフ」のひとり
というわけです。
彼は厨房で料理を作るだけでなく
コック達に料理を教え、育て、
チームを引っ張っていましたが、それでも
「自分はコーチで、あくまでも監督はシェフ」
だと、きっぱり言い切りました。

その彼が、『バルボ』の閉店後
8ヶ月ほど別の店でシェフを務め、満を持して
臨もうとしていたのが
フィレンツェの『ロッシーニ』です。
そのとき彼の放った言葉は
「日本人がイタリアで、イタリア料理で勝負する時代が来た」
という、大きな大きな希望でした。

今年2月に、あらためて連絡をしたとき
2つの報告があると彼は言いました。
ひとつは、店のオープンが遅れて
先週始まったばかりだということ。
これはイタリアではよくある話です。
しかしもうひとつは
オープンの1週間前になって、彼がシェフではなく
セカンドになったことでした。

キッチンの設計も、コックを集めるのも含めて
すべての開店準備を進めてきたのは彼で
契約書も交わしていたはずなのに、
土壇場の大逆転で
地元のイタリア人がシェフに決まったのだそうです。

理由を訊くと
「まあ、いろんなことがあって」
と彼は言いました。
たとえば青木さんは、長くピエモンテで修業していて
トスカーナには初期の3ヶ月ほどいただけなので
食材の仕入先ひとつにしても人脈がない。
これはコネ社会のイタリアでは、確かにハンディです。
一つひとつを
ゼロから開拓しなくてはいけないことに対して
彼にやる気はあっても
経営陣が不安に思ったのかも知れません。

また、彼自身が言うように
それだけではない、さまざまな事情もあったのでしょうが
それは経営者側にも
訊ねてみなければわからないことです。

今の段階でひとつ言えるのは、青木さんが
まだ決してあきらめたわけではないということ。
イタリアに
日本人コックがこんなに増える前から単身海を渡り
労働許可証を取って、現地に根ざしてがんばってきた彼です。
トスカーナという新境地で
今はゆっくりと土地に慣れ、力を蓄えて
雪の下から生えてくるフキノトウのような生命力で
チャンスを伺っているようです。


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2004年4月6日(火)

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