金銭読本 邱永漢

「人とお金」を批評する

第8回
物を買う愉しみ

昨年であったか、河盛好蔵さんが『文藝春秋』に
「主婦五つの愉しみ」という文章を書いておられた。

女性の心理をついて甚だ要領を得ていたので、
今でも覚えているが、河盛説によると、たしか、
(1)同窓会に行くこと、(2)仲人をやること、(3)へそくること、
(4)姦通映画を見て自分ではやる勇気のない
冒険を楽しんで大いに溜飲をさげること、
(5)台所のオートメーション化をはかること
の五つであった。

われわれは主婦でないから、
この五つの選び方が正しいか正しくないかは
自分を中心にして判断することができず、
結局、自分の周囲にいる女性たち、
妻や姉や妹などを観察することによって決定するよりほかない。
河盛さんの場合にしても、恐らくはそうであろう。
ただそれを読んでいて、私は何か一つぬけているような気がした。

その一つとは、大きく言えば、
物を買う愉しみ、もっと詳しく言えば、
お買徳な買い物をしたという心理的満足である。

女の人はたいていの場合、一家の台所をあずかっているので、
金に対しては男よりも敏感である。

けれども女の人が全く無駄づかいをしないかというと、
どうやらその逆であるらしい。

たとえば箪笥一ぱい衣裳をもっていても
流行のデザインを追う気持の激しさや、
テレビを買う金がなくても都営アパートの屋根に
アンテナを立てたがる心理は、
男の理解力をはるかにしのぐものがある。
つまり自分がそれをどう思うかということよりも、
他人がそれをどう思うかということの方が先にくるのである。

これが恐らく女性の最大の弱点であろうが、
しかし、その弱点があればこそ、多くの男が一生懸命に働いたり、
生命賭けで月賦を払ったりする気になるのであろう。

またこの弱点のゆえに
多くの商売が成り立っていることも事実である。

けれども限られた収入の範囲で、
この虚栄心を満足させて行かなければならないので、
女の人は、たとえば五百円の酒を飲んで
千円のチップをおくようなバカな真似は決してしない。

むしろ五百円で売っているものでも、
三百円か四百円で買う方法がないものかと頭をひねるのである。

デパートの常設特売場が今日の隆盛をきたした原因は、
こうした女性の心理を反映したものであろう。

特売場で売っていると全く同じ品物をウィンドに並べておいて、
それを買おうとすると、
「特売場へおいでになると五十円お安く買えます」
と教えてくれる親切心は、
特売場に対する信用を厚くする
巧妙なる心理作戦と見ることもできる。

そこで五十円安い靴下を買うために、
八十円のタクシーでのりつけ、少しサイズが大きくても
特売場の品物だから洗えば縮むだろうと思って水につけてみたが、
いっこうに縮まなかったという美談まで現われる。

デパートは安くても縮まないことを誇りとし、
奥さまは上手な買物をしていることを誇りとし、
旦那さまはそのどちらも信用しないで、
大いに笑うことを誇りとするのである。

もっとも、物を安く買おうとする心理は
何も女性だけに特有のものではない。
夜店でひやかし半分に値切ってみるのはたいてい男の方である。
そして、必要でもないものを重い思いをして家まで持って帰ったら、
近所の荒物屋の方が安かったという例はしばしばある。

こうしてみると、物を安く買おうとする心理の中には、
経済的な必要以外に、もう一つ値切る愉しみ、
他人より安く買う愉しみ、
つまり娯楽的要素があることがわかるであろう。

私は四年ほど前に香港から東京に移り住んだが、
その時、世帯道具をおいて来たので、
衣類を除いたほとんどのものを全部はじめから
買いなおさなければならなかった。

むかしはそうでもなかったのだが、
箒一本買うのにも店を出て行くふりをしなければならない
香港の生活をしたあとなので、
箪笥を買うのにも扇風機を買うのにも
売り手の言いなりに一方的に押しつけられるのは、
甚だスリルがないばかりでなく、
売り手横暴という印象さえ受けた。

当時は金を儲ける手段に恵まれず専ら守勢一方で、
しかも時間はあり余るほど持っていたので、
私は同じ一つの品物を買うのにも多くのデパートを見てまわり、
知人の意見をきき、さらに安く買えそうな店をねらって
どんな遠いところまででも出かけて行った。

持ち金が一定していて、
積極的に収入をふやす方法がないときには、
これ以外に方法がないと思ったのである。

おかげで私は電気器具を買う時には秋葉原に行けばよいことや、
衣類を買う時には横山町まで行けばよいことを知った。

それらのところでは普通の小売店より二割から四割も安い値段で
目的の品物を手に入れることができるのである。
この経験によって私が意外に思ったことは、
第一に小売店と問屋の売値の差があまりに激しいこと。

第二にこんなに値のひらきがあっても、
小売店が成り立っているということであった。
 むろん、限られた収入しかない人々
(そして、それは世の中で大多数を占めている)が皆、
私のような買い方をしたら、
小売屋さんが悲鳴をあげてしまうかもしれない。

けれども買手の立場から言えば、
同じ品物を買うのに何も必要以上に
高い金を払う必要はないであろう。

逆に言えば、日本の小売商人は、
鷹揚で派手好きな消費者を対象としているので、
その上にあぐらをかいていると思われても仕方がない。

もし消費者たちがもう少し計算高く、
一本百七十円で買える蛍光燈を三百円だして買うことをやめたら、
電機商は自衛上、二百円ぐらいに
値下げせざるを得なくなるであろう。

そうすれば、電機商の収入は減少するかもしれないが、
その代り電気釜や洗濯機が
それだけ売れるようになるかもしれないのである。

今日でも比較的卸し値と
小売協定値の間にひらきのある電機業界で、
「安売り」をめぐって争いがあるが、
消費者の立場から言えば、
そもそも協定値というものがおかしい。

なぜならば、原則的には、
物の取引は売り手と買い手が手を合わせたところで
きまるべきもので、
ちょうど、鋏で紙を切るのは上刃でもなければ下刃でもなく、
その双方が合ってはじめて切れるようなものだからである。

家計においても、「攻撃が最大の防御」
であることに変りはないが、
「入るを見て出ずるを計る」大多数の家庭においては、
依然買い物の上手下手が大きな鍵になっている。

そして、その面ではまだまだ開拓の
余地がありそうに思えるのだが、どうであろうか。





←前回記事へ

2012年7月30日(月)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ