この二人を訪ねて上海に行き、その案内で駐華アメリカ大使スチュウェルに、台湾の前途について話し合いに行った、といったような話は、当時の台湾ではうっかり口に出せない、生命にかかわる秘密事項であった。それを初対面の私に話をするということは、私を信用した上のことであろうが、私のことを私の先輩からも、また廖文毅博士からもきいていて、危険はないと判断していたのであろう。
「廖先生兄弟が上海から香港へ亡命したことは、君もご存じだろう」
と荘要伝は言った。もちろん、私はそういう消息には充分、通じていた。
「この上は、アメリカに働きかけて、台湾を独立に導いて行く以外に、台湾人が生きのこる道は残されていない。きっと君も僕と同意見だろう。それを前提として、君に頼みたいことがあるんだ」
荘の私に対する頼みというのは、廖文奎、文毅博士を促して、国連に台湾の将来を決定するための国民投票を請願する運動を推進してもらいたいということであった。その使者の役目を私にやってもらいたいというのである。
「僕がやってもかまわないが、僕がやるよりも、あなた自身がやればいいじゃないですか。どうして自分でやらないのですか?」
と私はすぐにその場で切りかえした。
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