スパイもどきで
私はまだ独身だったし、縁談もよく持ち込まれていた。台北から直接、香港に飛んだのでは人目につくおそれもあったので、私は縁談があるといって銀行を休み、親の住む台南市へ帰った。家へ立ち寄って、父にはこれから南部に出張すると嘘をつき、そのまま台南市の飛行場から香港へ飛んだ。
誰にも見つからないつもりでいたが、運の悪いことに、台南飛行場でバッタリと友人の兄貴と顔を合わせてしまった。友人の兄貴はロンドンに発つ町の有力者を見送りに来ていたのだが、私の顔を見ると、「何をしにきたのか」としきりにきく。返事に困って「僕も人を見送りに来ました」と答えたが、ギリギリまで待合室に残っていて一番最後に飛行機の中に乗りこんでしまった。
恐らく友人の兄貴は、私が飛行機に乗り込むのを見て、「変な奴だな」と思ったに違いない。飛行機がとびたってから、私は次第に不安になってきた。もし私が台南市から香港に発ったという目撃者があって、その口から洩れでもしたらどうしよう。それこそ生命にかかわることではないか。一週間後に無事、役目をはたして再び台南飛行場に戻ってきた私は、自分の家には寄らずに、そのまま友人の家へ行って、兄貴に口止めを頼んだ。その友人は東大に行っていた時分、私と同じ下宿に住んでいて、私が憲兵隊に留置されたときも、私の釈放のために奔走してくれた気心の知れた友人だったから、私がなぜ香港に行ったのか、その理由もきかずに、ただ「わかったよ」と言っただけであった。
香港へ到着した私を廖文毅博士が迎えてくれた。廖文奎博士のほうはまだ上海に住んでいて、弟のほうが一足先に香港に移住していたのである。
予定通り、私は廖博士の家に引きこもって一ぺん書いて焼き捨て頭の中にしまい込んだ原稿をもう一度、再現した。それを廖氏が英文に翻訳し、そのコピーを持って駐香港アメリカ領事の家へ訪ねて行った。
廖氏は私をアメリカ領事に紹介し、アメリカ領事がその原稿にさらに手を入れて返してくれた。それをもう一度、きれいに打ち直してから、国連事務総長あてに発送をしたが、こんな反政府的な運動に対してまでアメリカの出先外交官が熱心に力をかしてくれるのは、もしかしたらアメリカの国務省にも、台湾の将来に対して台湾の人たちに道をひらいてやろうという気があるのではないか、と私にひそかな希望を抱かせた。
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