世話をすべき人の数をあらかじめきめてサラリーがきめてあるのに、そこへ次から次へと居候がころがりこんできたのでは、女中さんだっていい顔をするはずがないのである。
荘要伝は朝日新聞の特派員として戦争中に香港に駐在したことがあるとかで、香港の事情には多少は通じていた。広東語も片言くらいのことは喋れた。
「女中さんに少々チップをやらないと突慳貪(つっけんどん)にされるぞ」
と荘が言うので、私は荘に香港ドルの二十ドルを渡して、
「僕たち二人からといって渡してくれ」
と頼んだ。荘はそのお金を女中さんに渡すことは渡したが、僕が払ったとは言わずに、自分のお金のような顔をして渡したので、その日から女中さんは荘の洗濯物を洗うようになった。ところが、洗濯物の籠の中を見ると私のシャツやパンツだけは丁寧に選り分けて残してある。
「お金は僕が払ったのですよ」と文句の一つも一言いたくなるが、言葉がまるでできないので意思は全然通じない。お金に不自由するとこんな目にあわされるのかと悔しい思いをしたが、やむを得ず、自分の汚れ物は自分で洗濯する羽目になった。
恐らく荘要伝も、こんな香港に長く住んでいても仕方がないと思ったのであろう。スキャップ(在日占領軍司令部)に働きかけることこそ自分の使命だと考えた彼は、一か月もすると、香港から東京へ単身で渡った。パスポートも入国許可もない人間がスイスイと日本へ入国できたのは、香港と日本を結ぶヤミルートがあり、当時の香港ドルで千ドル払うと、船員として乗船させてもらえたからであった。
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