廖博士の部下は、そうしたルートに渡りをつけて、船にペニシリンやストレプトマイシンを載せて東京へ持ち込んだところ、元金の十倍にも売れた。それに勢いを得て、さらに資本を注ぎ込んで日本に運ばせたところ、無事、荷揚げはできたが、荷物をあずけた相手にネコババされて解決に手間どっているという情報が流れてきた。
しかし、若くてお金を握ったものだから、陳というその男は東京で遊び呆けて、散髪に行って百円払えばよいところを千円払うような散財をしているという情報もあって、密輸商売も多事多難のようであった。
その陳という男に紹介されて蔡という男が日本から密輸船に乗って香港へやってきた。蔡も船員に化けて歯ブラシ一本、タオル一本の着のみ着のままでやってきたが、腹巻きの中にダイヤをいくつも縫いつけてあり、それを香港の宝石商で換金して、ペニシリンとストレプトマイシンとサッカリンに換えて日本へ持って帰ることになった。
私はまだ広東語もロクにできなかったし、商売のかけ引きもうまくなかったが、日本からきたばかりの人よりはいくらかましだったので、案内役と通訳をたのまれ、薬の問屋に行ったり、荷づくりを手伝ったりした。
蔡の話によると、この商売にも次々と新入りが現われ、競争が激しくなっているのでもう十倍は儲からなくなっている。しかし、それでも五倍や六倍にはなるだろうということであった。それならば、自分も一口乗せてもらえないかと頼みこんで、私はなけなしのお金の中から五百ドルを出資した。さきにも述べたように五百ドルは私の全財産の半分であった。
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