一か月か、遅くとも二か月以内には戻ってくると、蔡は私に約束して出て行った。もし二か月以内に戻ってきて、五百ドルが二千ドルか、二千五百ドルにでもなっておれば、私は異郷でおちこんだどん底から這いあがれるようになるとひそかに胸算用をしていた。それがどういう性質のお金であるかをいちいち考えている余裕はなかった。故郷を捨ててしまった男としては、もはやそれくらいしか餓死を免れる道は残っていなかった。
やがて無事、神戸に着いて、荷揚げもうまくいったという手紙は届いた。しかし、三か月たっても、四か月たっても、蔡は戻って来なかった。私は心配のあまりベッドに仰向けになったまま朝まで眠れない夜を明かした。
ファーイースタン・エコノミツク・レビューのコレスポンデントをつとめて、辛うじてもらった百香港ドルの報酬の中から、メガネ代を八十五ドルもむしりとられて呆然となったのもこの時期であった。
香港は熱帯に位置しているから、冬でもせいぜい、日本の十月くらいの温度である。しかし昭和二十三年の香港の冬は、私にとって特別に寒さが肌身にしみる寒い冬であった。もしかして蔡はそのまま帰って来ないのかもしれない。たとえ私のお金を横領する気がなかったとしても、私のところにお金が届かなければ私の財布の中は空になってしまう。
仕事があれば、どんな仕事でもやるつもりだったが、言葉は通じないし、学歴も役に立たなかった。しかも狭い香港の街には何十万という避難民が溢れ、それが乞食になって、夕食後の散歩をしている同じ難民である私たちにまでつきまとってくる。私はお先まっくらで、自分がこのまま香港であの乞食の群れの中に埋没してしまうのではないかとおそれおののいた。
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