お金というと、日本人はすぐ二つの全く異なった連想をする。一つはお金のことなら経済のことだろう、経済のことなら経済学が扱っているようなことであろうという連想である。
もう一つは、お金のような卑しいものを臆面もなく取り上げる奴は、いずれ守銭奴でなければ、ガリガリ亡者であり、どちらにしても下賎な奴じゃ、という連想である。
しかし、私は生粋の日本人ではなく、純綿よりは混紡的存在だったから、お金をそういう具合にはとらえなかった。私にとってお金は大切なものである。それがなければ、電車にだって乗れないし、おなかをすかせても、昼飯だって食べられない。ことに、私のように香港に流れて行って、このまま飢えて死んでしまうのではないかという目にあってきた人間は、お金のありがたさが身にしみている。しかし、だからと言って、お金のためなら義埋人情を欠いてもよいとは思っていないし、お金さえあればどんなことでも片がついてしまうと考えているわけでもない。
かと言って経済といえば、マクロ経済とか、ミクロ経済とか、現実と遊離した「象牙の塔」の中で理論のための理論闘争をやることだとは思っていない。私は大学で経済学の理論はならったが、お金儲けにも従事したので、もし私がお金の話を文章にするとしたら、自分の財布の中から出発したいと考えた。
結局、私は株の話からはじめることになった。株の話をやる前に『婦人公論』に「金銭読本」という連載を一年間やったが、連載の終わる頃には世の中はますます経済の発展する方向に向かっていた。
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