ブームはきたが……
私が砂利屋をやって成功しなかったのは、第一に私が文士業をやりながら、片手間にそれをやったからであった。何ごとも一事に専念して全力投球をしなければ成功できるものではない。これは私のようなマルチ発想をする人間にとって慎むべきことであろう。
第二に砂利ブームが鬼怒川べりまで波及するのにあと五、六年かかったことである。私は東京周辺の砂利採取が禁止されたら、すぐにも鬼怒川とか那珂川にくると読んだが、静岡県の大井川や富士川の河口から水路で東京に運び込まれてくることを勘定に入れていなかった。
実際にはまず静岡県にブームが移り、静岡県が乱掘に耐えかねて全面禁止をしてから、ブームは関東地方に戻ってきた。その間、辛抱を余儀なくされたのである。
第三は複雑怪奇で矛盾した砂利行政にふりまわされたことである。砂利の需要が少し出はじめた頃、県の河川課に申請を出した人は簡単に採取の許可をもらえた。しかし、それは相続も譲渡もできないもので、資力がないのに採掘権があり、逆に資力のある者が採取工場をつくっても、権利を買うこともできず、権利を獲得することもできず、権利者の名義をかりて日陰の経営をやらされた。そのために権利と経営が輻輳(ふくそう)し、工場を持っている人は、原石の採掘権を持った人から原石を買って、細々と生命をつなぐよりほかなかった。
こうした苦難の経営が四、五年続いた。そのうちに待ちに待ったブームが押しよせると、砂利工場の前にトラックが行列をするようになった。少ない砂利の割り当てにありつくために、トラックの運転手たちが順番争いで取っ組み合いの喧嘩をしているのを眺めながら、
「やっぱり狙いは間違っていなかったんだがなあ」
と胸を撫でおろしたが、商売は順風満帆というわけにはいかなかった。砂利の値段が上がりはじめると、監督官庁の規制は以前にもましてきびしくなり、採取量は逆に減らされてしまった。
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